2018年3月11日日曜日

倭王が、書を送って来て、国交を絶った。倭兵は、突然に風島にやって来て、辺境の民家を略奪した。

『三国史記』倭人伝
新羅本紀
 倭国と講和した。倭人が来訪した。倭の女王の卑弥呼が、死者を遣わし来訪させた。倭人が甚だしく植えた。やって来て食物を求めたものは、千余人であった。倭人が国境を侵犯した。利音を派遣し、軍隊を率いて、これを防がせた。倭人が突然に来襲し、金城を包囲した。王は自ら出撃して戦った。賊は敗れて逃走した。身軽な騎兵隊を派遣して、これを追撃させた。殺したり捕らえたりした者は一千余名であった。倭兵が東辺に侵入した。干老が、倭人と沙道で戦った。風を利用して火を放ち、船を焼いた。賊は水に飛び込んで、ことごとく死んだ。倭人が干老を殺した。倭人が一礼部を襲撃し、火を放ってこれを焼き、一千人を捕虜として去っていった。倭人兵が来襲したと聞いて、船と舵を整え、甲と武器を修繕した。倭兵が沙道城を攻め落とした。倭兵が来襲して長峯城を攻撃した。倭王が、書を送って来て、国交を絶った。倭兵は、突然に風島にやって来て、辺境の民家を略奪した。
『三国史記』(朝鮮の高句麗・新羅・百済から統一新羅までの最古の歴史書)


2018年2月27日火曜日

飢えは日一日と増してくる。用を足すためには小さな壺がある。これが第三帝国文明なのだ。

 死刑囚の独房にて。昼夜わたしは手錠はめられており、はずされるのは食事の時間中だけだ。裸ガラスの窓越しに、冬の凍るような風が吹いてくる。独房の暖房は数時間だけ入る。一日中の室温は最高で10度である。身体は全力をつくして寒さに抵抗している。だが無駄だ。カロリーが不足し、上が腸を痛めつける。いつも飢えが腸を痛めつける。いつも飢え、いつも寒い。わら蒲団のうえに毛布一枚で、夜はもっとひどい。おまえは胎児のように縮こまって、頭に毛布をかぶり、自分の息で少しばかりの熱を得ようと努める。朝おまえが起きるしときには、凍りついている。そして少しばかりのコーヒーで暖まりたいと思うのだ。いつもお前は寒さをおぼえている。乾いたパンの皮は歯のくぼみに入る程度だ。夕食と昼食は絶対的に不足している。飢えは日一日と増してくる。おまえの用を足すためには、小さな壺がある。これが第三帝国における文明なのだ。

ルドルフ・ザイフェルト(妻へ、ブランデンブルグの獄舎、1945年1月)「若き死者たちの叫びーヨーロッパレジスタンスの手紙」(J・ピレッツ編)教養文庫

2018年2月24日土曜日

ひとはなぜ戦争をするのか - 国際連盟にもっとも大事な事柄 -

アインシュタイン
 人間を戦争というくびきか解き放つことはできるのか?
 なぜ少人数の人たちがおびただしい数の国民を動かし、彼らを自分たちの欲望の道具にすることができるのか? 戦争が起きれば一般の国民は苦しむだけなのに、なぜ彼らは少数の人間の欲望を手に貸すような真似をするのか?
   人間には本能的な欲望が潜んでいる。憎悪に駆られ、相手を絶滅させようとする欲求が?破壊への衝動は通常のときには心の奥深くに眠っています。特別な事件が起きたときだけ、表に顔を出すのです。とはいえ、この衝動を呼び覚ますのは、それほど難しくはないと思われす。多くの人が破壊への衝動にたやすく身を委ねてしまうのではないでしょうか。
フロイト
 人と人のあいだの利害の対立、これは基本的に暴力によって解決されるものです。動物たちはみなそうやって決着をつけています。だだ、人間の場合、意見の対立というものも生じます。ですから、暴力以外の新たな解決策が求められてきます。
 敵を徹底的に倒すには、どうすればよいでしょうか。暴力を使い、敵が二度と立ち向かってこられないようにすればよいのです。そう、敵を殺せばよいのです。
 破壊活動に理想の欲動やエロス敵なものへの欲望が結びつけば、当然、破壊活動を満たしやすくなります。過去の残酷な行為を見ると、理想を求めるという動機は、残虐な欲望を満たすための口実にすぎないのではないかという印象を拭い切れません。

アルベルト・アインシュタイン、ジークムント・フロイト「ひとはなぜ戦争をするのか」(講談社学術文庫) 国際連盟からの書簡 1932年

2018年2月18日日曜日

哲学的精神はいたるところにあって、いかなる体系にも属することなく、一切の人知を支配しなければならぬものである。

 私は実験学者としては哲学体系を避けている。しかしそのために哲学的精神までも排斥することはできない。この哲学的精神はいたるところにあって、いかなる体系にも属することなく、単に一切の科学のみならず、また一切の人知を支配しなければならぬものである。私が哲学的体系からは全く遠ざかりつつ、しかも哲学者を大いに愛好し、彼らとの交際において無限の愉悦を味わっている理由はこれである。実際また科学的見地から見ても、哲学というものは未知の事象を認識しようとする人間理性の永遠の憧憬をあらわしている。それ故に哲学者はつねに異説粉々たる問題とか、科学の高尚な部分、上級の限界などとかに関係している。そしてそこから科学的思想に向って、これを活気づけ、高尚にするような運動を伝える。哲学者はまた、一般的の知的訓練によって精神を涵養しつつ強壮にし、それと同時に、到底説きつくすことのできないような大問題の解決に、精神を絶えず接触させているのである。このようにして哲学者は、未知に対する一種の飢渇、或いは研究の聖火ー学者にあってはこれが決して消えてはならないーを維持している。

クロード・ベルナール 「実験医学序説」(実験医学はいかなる医学の学派にも哲学の体系にも属さない)

2018年2月11日日曜日

政治家たちは、節制や正義の徳を無視して、愚にもつかぬもので国家を腹いっぱいにしてしまった。

 つまり、人びとが欲しがっていたもので、もてなしたなら、人びとにご馳走をした連中、その連中を君は褒めそやしているのだ。また、人びとのほうは、この連中が国家を大きくしたのだと言っているが、事実はしかし、あの昔の政治家たちのせいで、国家はむくんでふくれ上り、内部は膿み腐っているのだということに、気がつかないでいるのだ。なぜなら、あの昔の政治家たちは、節制や正義の徳を無視して、港湾だとか船渠だとか、城壁だとかとか貢租だとか、そういった愚にもつかぬもので国家を腹いっぱいにしてしまったからなのだ。だからあとで、あのいま言われたような病気の発作が起った場合には、人びとはその責任を、ちょうどその時時傍にいて忠告する人たちに負わせて、この災難の責任者のほうは、これを褒めそやかすであろう。そこで、要心しないと、人びとは君に向かって攻撃してくるかもしれないのだ。人びとが新たに獲得したものだけでなく、最初から持っていたものまでも、その上に失うようなことになった場合にはだよ。君にしても、その災難の真の責任者ではなくて、おそらくは副次的な責任があるだけだろうにね。

プラトン「ゴルキグアス」

2018年2月10日土曜日

最後の時が来た折には、時分の過ぎ去った全生涯をまるで違った風に考え始めて、ひどく悲しむだろう。

 あなたは、自分が夕方まで行き着けまい、と思い見なさい。また夕べが来たならば、あしたまでの生を約束されているなど、敢えて思ってはならない。それゆえ、いつも用意を怠らずに、死に不意打ちを食わされぬような生き方をしなさい(ルカ・21の36)。不意に、また予期せぬ時に、死ぬものが多い。なぜかというと、「思いがけない時分に人の子は来るだろう」から(マタイ・24の44)。この最後の時が来た折には、あなたは時分の過ぎ去った全生涯を(今とは)まるで違った風に考え始めて、ひどく悲しむだろう、時分がそれほど怠慢で、だらしがなかったことを。
 ああ、愚かな人よ、どうして長く生きてゆけると考えるのか、一日として確かなは持てないものを。どれほど多数の人々が、長く生きてゆけると思っていたのに、その望みを奪われたことか、思いかけずに現身を引き離されて。いくたびにあなたはこういうのをきいただろう。あの男は刀で殺された、彼奴は溺れて死んだ、彼奴は高い所から落ちて頸を折った。彼奴は食事をしながら固くなった。彼奴は遊びながら往生したなど。火で死んだ者、刃物で死んだ者、疫病で死んだ者、盗賊に殺された者などとりどりである。そして万人の行きつくところは死であり、人間のいのちは影のようにたちまち移りゆくのである(ヨブ・14の20)。
トマス・ア・ケンピス (第23章 死の瞑想について)「キリストにならいて」

 

2018年2月8日木曜日

盂蘭盆会を催し、燈をともし経文を念じ、幽冥に沈倫して、極楽に行くことの出来ない者を済度する。

盂蘭盆会 
 中元の日各寺院では、盂蘭盆会を催し、燈をともし経文を念じ、幽冥に沈倫して、極楽に行くことの出来ない者を済度する。仏典を見るに、「日蓮は彼の母が餓鬼の中に生まれ返って食べることが出来ないので、釈尊は盂蘭盆会を7月15日に催さしめ、五味百果を盆中に盛り、普く十万の大徳寺を供養し、而る後に日蓮の母にも食を得さしめた。そこで日蓮が釈尊に向ひ「凡て仏弟子の中で親孝行は盂蘭盆会の供養を行わなければなりますまい」と申上げると、釈尊は「大いに善」と答えた。それで後世にこれに従うのだ」と記して居る。又「釋氏要覧」には盂蘭盆とは乃ち天竺の国語で、支那語では倒懸の苦を解き救うという意味だ。今の人人が盆を設へて供物するのは誤りである。
清敦崇「北京年中行事記」

2018年1月28日日曜日

悲劇では行為する人々の再現であるから、視覚的装飾が悲劇を構成する要素でなければならない。

   悲劇とは、一定の大きさをそなえ完結した高貴な行為の再現であり、快い効果をあたえる言葉を使用し、しかも作品の部分部分によってそれぞれの媒体を別々に用い、叙述によってではなく、行為する人物たちによって行われ、あわれみとおそれを通じて、そのような感情の浄化を達成するのである。ここで快い効果をあたえる言葉とは、リズムと音曲をもった言葉のことを、それぞれの媒体を別々に用いるというのは、作品のある部分は韻律のみによって、他の部分はこれに反し歌曲によって仕上げることを意味する。
 悲劇では行為する人々が再現をおこなうのであるから、まず視覚的装飾が悲劇を構成する要素の一つでなければならない。つぎに歌曲と語法が悲劇の要素としてあげられる。なぜなら、これらを媒体として再現がおこなわれるからである。ただしここで語法というのは、言葉を韻律にあわせて組みたてることだけを意味する。
 悲劇は行為の再現であれ、行為は行為する人々によってなされるが、これらの者は性格と思想においてなんらかの性質をもっていなければならない。というのは、性格と思想によって行為もまたなんらかの性質をもつとわたしたちはいうのでありー行為には、おのずから思想と性格という二つの原因がある。ーそしてすべの人々は、このような行為に応じて、成功したり失敗したりするのである。
 詩人の仕事は、すでに起こった断る語ることではく、起こりうることを、すなわち、すなわち、ありそうな仕方で、あるいは必然的な仕方が起こる可能性のあることを、語るこどある。歴史家はすでに起こったことを語り、詩人は起こる可能性のあることを語るという点に差異があるからである。したがって、試作は歴にくらべてより哲学的であり、より深い意義をもつものである。といのは詩作はむしろ普遍的なことを語り、歴史は個別なことを語るからである。

アリストテレス(悲劇の定義と悲劇の構成要素について)「詩学」

2018年1月21日日曜日

奴隷による耕作は大なる社会においては存続することはできない。

「奴隷による耕作は大なる社会においては存続することはできない。」

 かくして人が互いに集まって大なる社会を構成するとき、新たにに加わる奴隷は耕作によって生じる消費に応じきれなくなる。しかして、人は家畜を用いて人間労働を補うけれども、漸次奴隷による土地耕作は不可能となる時代が来る。これ奴隷使用は家内の用務のためにのみ限られ、結局それは消滅するに至る。なぜなら、国家の文明が進むに従い、国家は戦争による捕虜を互いに返す協約を結ぶからである。かかる協約は、各国人が奴隷に陥る危険から遠ざかることに大なる利益をもつだけ、それだけ容易に締結される。

アンヌ・ロベール・ジャック・チュルゴオ「冨に関する省察」(白)

2018年1月14日日曜日

流通する以上の紙幣の増加によって、戦時中生産が容易となり、劣った土地が容易に耕作されたので、平和回復後の滞貨と低物価を増すようになった。

   金紙の開き以上に出る通貨の価値変動が、どの程度までイングランド銀行正貨支払い制度条例および正貨支払い制度への復帰に帰せられかは、なかなか容易にはいえない。紙幣は金と平価を維持していたのであるが、通貨が前戦時下ではなはだしく下落し、平和回復に伴う諸事情のもとではなはだしく騰貴しているであろうということ、これにはすこしも疑うわけにはいかない。金と平価で流通する以上に出る紙幣の増加によって、戦時中生産が容易となり、劣った土地が容易に耕作に付されたので、それが平和回復後の滞貨と低物価を増すようになったことが、おそらく唯一の差異であったろう。
 けれじも平和回復後の土地所有者に対する重圧がどんなであったろうと、公債所有者を犠牲にして償いをもとめようとする試みに対しては、土地所有者にはいささかの弁解もなりたたない。運はめぐりあわせであるから、あらゆる党派は公明正大に振舞うべきである。どんな階級の人でも、不正な恥ずべき手段を講じて、他をおとしいれ、自己の繁栄をはかろうとするのでは、正しいとはされない。とりわけわが国の土地所有者たちは、こんな手段を考えおよんではならない。今日どんな迷惑をこうむっていようと、かれらは、疑いもなく、自分たちの苦境を救ってもらう権利があると考えている当の人たちにくらべると、はるかに大きく通貨の価値変動の利益に均霑してきたからである。
トマス・ロバート・マルサス「価値尺度論」(白)

2018年1月7日日曜日

無礼な子供に、コテで焼印をつけ、驢馬を飼うためにパンの寄与を強要して餓死させた。

 植民者はもっと大きな犯罪の罰として、監獄船に乗せられていた。友人こそ、この男を絞首台へ連れていった有り難い人であった。この小暴君ネロは、自分に無礼をしたという子供に、真赤に焼けた壁土を貼るコテをもって真実に焼印をつけたり、若驢馬を飼うために、我々の食用のパンを半分づつ出せと寄与を強要して、我々四十人をほとんど餓死させたのである。その驢馬というのは、一寸信じられない話であるが、情婦であった保姆の娘に黙認してもらって、そっと連れ込んで来て、監房と言われた寄宿舎の鉛板の屋根の上に飼っておいたのである。この慰みは一週間以上も続いたが、この馬鹿な獣類、自分の幸運を黙っていることができず、落ち着いて己を制していることができたら、カリギュラの馬よりも、幸福であったろうにー物語にあるその同類の何れかよりも、ああ更に愚かにもー飽食して得意になり、蹴散したりして、不幸にもある時、思わず下界に向かって声を挙げて、自分の幸運を呼ばずにはいられなくなった。それで一生懸命、その一つと調子の喉をしぼって、もう隠し仰せぬような角笛の一声を吹き立てたのである。一種の情状酌量が加えられ、驢馬の保護者がその折どんな咎めを受けたか、それは知らない。

チャールズ・ラム著 (クライスツ ホスピタル (三十五年前の) )「エリス随筆集」

2018年1月6日土曜日

すでに人間と生まれたからには、いかに才能、古今にすぐれ、識見、天地をきわめつくそうとも、人の境界を出ることはできない。

 すでに人間と生まれたからには、いかに才能、古今にすぐれ、識見、天地をきわめつくそうとも、人の境界を出ることはできない。そうであるからには、学ぶのも身を修めるのもすべて、人事のためです。それゆえ、内にあっても、外に出ても、貴は君公の位にあろうと、賤は奴婢早隷にいたろうと、ただもう人の間のことですから、ただ孝悌、忠信、礼儀、廉恥の間のことなのです。もし、道というものをこの人の外に立て、人事に害をなすならば、それは人の世、どこにいこうとも、非でありましょう。つまるところ、民衆を安んずるより大いなる道はなく、民衆を利するよりすぐれたる功はありません。そこで、上は一人から下は民衆にいたるまで、その身分に差等はあっても、天の生生の徳にならい、天物をそこなわず、人それぞれが造化を助けようと心がけるなら、天地の大徳に背かないですむのではありますまいか。人は生まれるとすでに早く各己の天地を有し、おのおのの混倫の体を立ておのおのの鬱勃の神を活かしています。人間とはそのようなものですから、人間あいての政治にあってはときに権謀術数をもって民衆を御するなりゆきにもなります。しかし制御するにしても、もしそのやり方に徳を失すれば民衆は粥のようににえたぎって、その権謀も用をなさなくなります。それぞれの心の鬱勃、それぞれの身の混倫と、同じものをもちながらそれぞれ異なったものを同居させている。これが人間です。

三浦 梅園 (人使然の世界)「自然哲学論集」

2018年1月1日月曜日

「文化」を集団運動の意味のみに解しようとしたり、昔の戦争を「不道徳」として文化の中へ数えまいとしたりする。

 文化の概念をあまりに狭く局限された一群の諸客体だけに限る諸規定を取り扱わねばならない。文化なる語が多くの人々に対してむしろ不快な副次的意味を多分生じて来たからのことであって、この副次的意味から、文化科学なる用語の嫌悪されるわけが判然するであろう。私はもちろん科学とは何の関係もない文化闘争や倫理教化運動のような複合語のことを言うのではない、且つまた「文化」を集団運動の意味のみに解しようとしたり、昔の戦争を「不道徳」として文化の中へ数えまいとしたりする、一部の方面からなされた言葉の濫用に、この語の使用の嫌われる所以があると考えるのでもない。私はむしろ、世間一般にあれほど人気のある「文化史」なる概念と特に結びついている思想を眼中に置いているのである。いわゆる文化史なる学問と、例えば政治史との間に立てられた対立と我々のいう文化の概念とは全く無関係にしておかれなくてはならぬからである。我々の規定によれば、一方において国家は全く国民経済や芸術と同様に一個の文化財であるが、誰も直ちに国家生活と同一視することもできぬ。が他方においてはまた、文化生活を直ちに国家生活と同一視することもできぬ。

ハインリッヒ・リッケルト「文化科学と自然科学」


2017年12月31日日曜日

宗教でも人間の道を完全にするのだから、唯我国が国体に同化すれば良い同化しえないものは斥ける。

 近頃神社において戦勝祈祷などを行ったことについて、キリスト教側のものから、宮内省に反抗的の建言書を提出したということだ。趣旨は神社をもって常々宗教以外だといっていながら、戦勝祈祷の如き宗教的形式のことを、ここに行うのは不都合だという意味であるような。これについて、我らも考を定めて置かねばならぬ。予の考では、我国において神を祭り、神を念ずるのは、つまり祖先の霊に対して同情を求めるのである。つなわち物質的の効験があると思惟するがためではない。ちょうど我々友人同士が、何か苦痛や心配のある時、話し合って慰籍を得ることがあるのと同一である。しからば、我国においては、一番勢力(エネルギー)を蓄積された皇室、その皇室の祖神に向かって祭祀もし、祈念するのは当然ではないか。今後世の中が進歩すると、信神ということは神の同情を求めることに帰着するよ。要するに、いかなる宗教でも、人間の道を完全にしようとするのだから、これが悪い、あれが悪いとは言わぬ。唯我国が国体に同化すれば良い。同化しえないものは斥けるより仕方がない。
大正3年「杉浦重剛座談録」

2017年12月30日土曜日

慣習は勝利者となるため異常事を行うあらゆる自由を愛者に与え、賞賛を受けることすら許している。

 実際人は次のようなことを熟慮すべきである。明らさまに愛するのはひそかに愛するよりも美しく、しかももっとも高貴にもっとも優秀な者をーたとい彼が他のものよりは顔貌が醜いにせよー愛するのは特に美しいといわれていることを。さらにまた、万人が恋する者に与うる異常なるーしかも何か醜悪な行いのあった者には決して与えられぬごときー鼓舞を。かつ恋愛における成功は誉とせられるが、その不成功は恥辱とせられる。慣習はさらにまたその勝利者となるためならば異常事を行うあらゆる自由を愛者に与え、しかもそれに対して賞賛を受けることすら許している。ところがこの行為は、もし誰かが何かこれ以外の目的を追求して、これを達成するためにあえて為したとすれば、フィロソフィヤから非常に手厳しい非難を招かずにはいられぬ種類のものなのである。

プラトン「饗宴」

2017年12月29日金曜日

木と木とが摩擦しあうと、火が出て燃えあがり、金属と火と溶けて流れ出す。

 木と木とが摩擦しあうと、火が出て燃えあがり、金属と火とをいっしょにしておくと溶けて流れ出す。陰の気と陽の気とがその運動を乱すと、天地が変動して、ここに雷鳴がとどろき稲妻が走る。木のなかに火が生まれて、そこで槐の大木も焚けおちる。ひどい心配ごとがあると、内外両面ともに悪くなってのがれようもなく、落ちつきなく気づかいをするばかりで安らぎも得られず、心はまるで天地のあいだで宙づりになったようである。沈鬱な混乱のなかで利害の情がせめぎあうと、体内の熱は火となっていよいよ燃えさかり、人々はそのために本来の和気を焚きつくしてしまう。陰性の月はもちろん火には勝てないものでだ。こうして、崩れ落ちるようにして体内の真実の道はつき果ててしまうことになるのだ。

第26 外物編「荘子」第四編 (雑編) 

2017年11月29日水曜日

人類の経験によって神聖にされた諸々の偏見や習慣を、「理性」そのものが尊敬するのである。

 一体我々の祖先たちの事を知り、これを記録に留めようという欲求が、一般に極めて盛な所を見ると、これはきっと人々の精神に対する或る共通原理から来ているに違いない。我々は、何だか自分自身が我々の先祖として生きていたような気持ちになり、この理想の寿命を少しでも長いものにしようとして、虚栄心が骨を折り且つやがて満足するのである。我々の想像力は、自然が我々を閉じ籠めた狭隘な世界を拡大しようと絶えず活動している。普通一人の人間には五十年乃至百年が許されるに過ぎないが、我々は一面宗教や哲学の教える希望によって死を超越し、他面我々の生を創り出した先祖と結びつくことによって我々の誕生以前に在る沈黙の空虚を充実させる。古い優れた家系に就いての矜恃というものは、もっと冷静な批判をこれに加えたところで、幾分和らげられるに留り決して抑圧されない。よし風刺文学者が嗤笑し、哲学者が説教しようとも、人類の経験によって神聖にされた諸々の偏見や習慣を、「理性」そのものが尊敬するのである。自分が内心ひそかにあやかりたいと思っている強味を他人が持っている時、本心からこれを軽蔑し得る人は極く辛である。遠い昔からの我一門に就いて知っているということは、誰にも彼にも出来るものではないから、抽象的に立派なものとしていつも尊敬されるであろうが、百姓や職工の系図がどんなに長く続いていてもその子孫の矜恃に大した満足を与えはせぬであろう。我々は祖先を発見したいと思うが、而も彼等が裕かな財産を持ち、誉高い称号に飾られ、世襲貴族の階級に於て高位に在る所を発見したいと願う。而もこの階級を人々は、地球上の殆ど凡ゆる風土を通じ、又殆ど凡ゆる種類の政治社会に於て、最も賢明且つ有益な目的から、保存して来ているのである。

エドワード・ギボン「ギボン自叙伝  ー 我が生涯と著作との思い出 ー」

2017年11月26日日曜日

破戒にて虚く人夫の供養を受るより、無道心にて徒に如来の福分より、在家人に随ふて命ながらへて能く修道せん。

 答えて云く、但夫れ衲子の行履、佛祖の家風を学ぶべし。三國ことなりといへども真実学道の者いまだ此の如きの事あらず。只心を世事に執着すること莫れ。一向に道を学すべきなり。佛の言く、衣鉢の外は寸分の貯へざれ、乞食の余分は飢たる衆生に施せ、設ひ受け来るとも寸分も貯ふべからず。況や馳走あらんや。外典に云く、朝に道を聞いて夕べに死すとも可なりと。設ひ飢へ死に寒へ死すとも、一日一時なりとも佛教に随ふべし。万劫千生、幾回か生じ幾度死せん。皆な是れ世縁妄執の故へなり。今生一度佛制に随て餓死せん、是れ永劫の安楽なるべし。いかに況や未だ一大蔵教の中にも三國伝来の佛祖、一人も飢へ死にし寒へ死にたる人ありときかず。世間衣糧の資具の生得の命分ありて求に依ても来らず、求ざれども来らざるにも非ず。只任運にして心に挟むこと莫れ。末法なりと謂ふて今生に道心発さずば、何れの生にか得道せん。設ひ空生迦葉の如くにあらずとも、只随分に学道すべきなり。外典に云く、西施毛嬌にあらざれども色を好む者は色を好む、飛兎縁耳に非ざれども馬を好む者は馬を好む、龍肝鳳髄にあらざれども味を好む者は味を好む。只随の賢を用るのみなり。俗なを此の叢林、人天の供養絶へず。如来神通の福徳自在なるも、馬麦を食して夏を過しましましき。末法の弟子、豈に是を慕はざらんや。
 問て云く、破戒にして虚く人夫の供養を受け、無道心にして徒に如来の福分を費やさんより、在家人に随ふて在家の事をなして、命ながらへて能く修道せんことを如何ん。

懐 奘「正法眼臓随聞記


2017年11月25日土曜日

日いづる國はこゑのままに、よろづの事を伝へ、日さかる國は万づの事にしるしとする國也。

 これの日いづる國はいつらのこゑのままにことをなして、よろづの事をくち豆からいひ伝へるくに也、それの日さかる國は万づの事にかたを書てしるしとする國也、かれの日の入國はいつらばかりのこゑにかたを書て、万づの事にわたし用いる國也、かかるに此くににのみかたを用ざるを疑ふ人あるはいまだしかりけり、なぞといはば、日放る國人は巧みなる事を好むより、言もおのづから一こゑのちに多きことわりのこもれれば、かたなくはことゆかじ、されども千よろずの声に繪を作れるはうたてあり、日の入國はこまやかなる思ひかねを好むからに、事も音も従ひてさはなれば、こもかたを用めり、されどもただいつらばかりの音のかたもて万づにうつしゃるべくせしは、こまやけく思い兼たる也、これの日出る國はしも、人の心なほかれば事少く言もしたがひてすくなし、事も言も少なければ惑ふこともなく忘るる時なし、故天つちのおのづからなるいつらの音のみにしてたれり、なぞも人の作れるかたを待てものをなさめや、しか有を此いつらの音をつらねいふは、日の入国にならへりといふ人有こそうこなれ、此國の古へ人こととはざらんや、こととふは天地のちちははの教え也、かれしらずしらず此いつらの音もあるめり、且しか思ふ人は時代をも思はず、おのが國のふることをしらで、他の國の事をなまなまに聞いていへる也。
加茂 真淵 ( 語意 ひとつ )「語意・書意」

2017年11月24日金曜日

キリスト教徒たちは、インディオには猛り狂った獣と変らず、人類を破滅に追いやる人々であり、最大の敵であった。

 私は頭株の人たちや領主が四、五人そして火あぶりにされているのを目撃した。彼らは非常に大きな悲鳴をあげ、司令官を悩ませた。そのためには、安眠を妨害されていたためか、いずれにせよ、司令官は絞首刑にするよう命じた。ところが、彼らを火あぶりににしていた死刑執行人よりはるかに邪悪な警吏の望みとおり、じわじわと焼き殺した。
 私はこれまで述べたことをことごとく、また、そのほか数えきれないほど多くの出来事をつぶさに目撃した。キリスト教徒たちはまるで猛り狂った獣と変らず、人類を破滅に追いやる人々であり、人類最大の敵であった。非道でも血も涙もない人たちから逃げのびたインディオたちはみな山に篭ったり、山の奥深く逃げ込んだり、身を守った。すると、キリスト教徒たちは彼らを狩り出すために猟犬を獰猛な犬に仕込んだ。犬はインディオをひとりでも見つけると、瞬く間に彼を八つ裂きにした。また犬は豚を餌食にする時よりもはるかに嬉々として、インディオに襲いかかり、食い殺した。こうして、その獰猛な犬は甚だしい害を加え、大勢のインディオを食い殺した。
 インディオたちが数人のキリスト教徒を殺害することは稀有なことであったが、それは正当な理由と正義にもとづく行為であった。しかし、キリスト教徒たちは、それを口実にして、インディオがひとりのキリスト教徒を殺せば、その仕返しに100人のインディオを殺すべしと掟を定めた。
ラス・カサス「インディアスの破壊についての簡潔な報告」

2017年11月23日木曜日

翁は曰く、善悪の論は甚だむずかし、本来を論ずれば、善も無し悪もなし。

 翁曰、善悪の論は甚だむずかし、本来を論ずれば、善も無し悪もなし、善といって分つ故に、悪という物できるなり、元人身の私より成れる物にて、人道上の物なり、故に人なければ善悪なし、人ありて後に善悪はある也。故に人は荒地を開くを善とし、田畑を荒らすを悪となせども、猪鹿の方にては、開拓を悪とし荒らすを善とするなるべし。世の法盗を悪とすれども、盗中間にては、盗みを善としこれを制する者を悪とするならん。しかれば、如何なる物これ善ぞ、如何なる者これ悪ぞ此理明弁し難し、此理のもっとも見安きは遠近なり、遠近というも善悪ともいうも理は同じ、例えば、杭二本を作り一本には遠と記し一本には近しと記し、この二本を渡してこの杭を汝が身より、遠き所と近き所と、二所に立べしといい付ける時は、速やかに分かる也。予が歌に「見渡せば遠き近きはなかりけりおのれおのれが住処にぞある」とこの歌善きもあしきもなかりけりという時は、人身に切なる故に分からず、遠近は人身に切ならざるが故によく分かる也。工事に曲直を臨むも余り目に近すぎる時は見えぬ物なり、さりとて遠近てもまた、眼力及ばぬ物なり。古語に遠山木なし、遠海波なし、といえるが如し、故に我身に疎き遠近移して諭すなり。夫遠近は已が居所先に定まりて後に遠近ある也。居所定らぜれば遠近必なし、大阪遠しとはいはば、関東の人なるべし、関東遠しとはいはば、上方の人なるべし。禍福吉凶是非得失みなこれに同じ、禍福も一つなり、善悪も一つなり、得失も一つなり、元一つなる物を半を善とすれば死の悲しみはしたがって離れず、咲きたる花の必ちるに同じ、生じたる草の必ず枯れるにおなじ。

二宮 尊徳「二宮翁夜話」

2017年11月22日水曜日

おのれに存する偉大なるものの小を感ずることのできない人は、他人に存する小なるものの偉大を見のがしがちである。

   おのれに存する偉大なるものの小を感ずることのできない人は、他人に存する小なるものの偉大を見のがしがちである。一般の西洋人は、茶の湯を見て、東洋の珍奇、稚気をなしている千百の奇癖のまたの例に過ぎないと思って、袖の下で笑っているであろう。西洋人は、日本が平和な文芸にふけっていた間は、野蛮国とみなしていたものである。しかるに満州の戦場に大々的殺戮を行い始めてから文明国と呼んでいる。近ごろ武士道 ー わが兵士に喜び勇んで身を捨てさせる死の術 ー について盛んに論評されてきた。しかし茶道にはほとんど注意がひかれていない。この道はわが生の術を多く説いているものであるが。もしわれわれが文明国たるためには、血なまぐさい戦争の名誉によらなければならないとするならば、むしろいつまでも野蛮国に甘んじよう。われわれはわが芸術および理想に対して、しかるべき尊敬が払われる時期が来るのを喜んで待とう。
 いつになったら西洋が東洋を了解するであろう、否、了解しようと努めるであろう。われわれアジア人はわれわれに関して織り出された事実や想像の妙な話にしばしば胆を冷やすことがある。われわれは、ねずみや油虫を食べて生きているのではないとしても、蓮の香を吸って生きていると思われている。これは、つまらない狂信か、さもなければ見さげ果てた逸楽である。インドの心霊性を無知といい、シナの謹直を愚鈍といい、日本の愛国心をば宿命論の結果といってあざけられていた。はなはだしきは、われわれは神経組織が無感覚なるため、傷や痛みに対して感じが薄いとまで言われていた。
岡倉 覚三「茶の本」

2017年11月21日火曜日

東方の者は統一のために差別を見失ふに引きかえ、西方の者は差別のために統一を忘れる。

 ドイツ思弁哲学は古へのソロモンの智慧と正反対を成している。これは日の下に新しき何ものもないと見るに引きかへ、それは新しきもののみを見る。東方の者は統一のために差別を見失うに引きかえ、西方の者は差別のために統一を忘れる。彼らは永久に一様なものに対する自己の無関心を、愚妄の無感情にまで押し進めるに引きかえ、之れは多種多様なものに対する自己の感受性を、恣まな想像の病熱にまで高める。ここにドイツ思弁哲学というは、現在支配的ある哲学 ー ヘーゲル哲学を特に意味するのである。けだしシェリング哲学は本来一の外来種 ー ゲルマンの土地に育った古への東方的同一性 ー であって、従ってシェリング学派の東方に対する性向は、この学派の本質的性向であるのと同じく、その反対に、西方に対する性向と東方の卑下がヘーゲル哲学とその学派との特徴なのである。同一哲学の東方主義に対し、ヘーゲルの特徴的要素は差別という要素である。

ルートヴィヒ・アンドレアス・フォイエルバッハ「ヘーゲル哲学の批判」

2017年11月19日日曜日

汝が悪人を赦した時は、悪人の当然報いるに合致するにあらず、汝の仁慈に一致するが故に義である。

 汝が悪人を罰したまうこともまた義である。何となれば善人が善を、悪人が悪を受けることよりも以上に、善なることがあろうか。しからば汝が悪人を罰したまうことも義であり、汝が悪人を赦したまうことも亦義であるのは、如何にしてであるか。汝が悪人を罰したまふのも義であり、汝が悪人を赦したまうのも義であるが、しかもそのあり方はお互いに異なっているのであろうか。というのは、汝が悪人を罰したまうのも義であるが、しかもそのあり方は互いに異っているのであろうか。というのは、汝が悪人を罰したまう時には、悪人の当然報いられべきものに合致するが故に、それは義なのである。しかし汝が悪人を赦したまう時には、それは、悪人の当然報いらるべきものに合致するが故にあらずして、かえって汝の仁慈に一致するが故に、義なのである。何となれば汝が悪人を赦したまう時、われわれの方からすればさうではないが、汝の方からすれば義でありたまうからである。それはあたかも汝がわれわれの方からすれば憐憫をもちたまうが、汝の方からすればもちたまうのではないと同様である。これが、義によっては汝が滅ぼしたまうべきわれらを、救いたまいて ー 汝が感情の動きを感じたまうからではなくして、われわれがその効力を感じるが故に ー 憐憫ふかくありたまう理由であり、それと同様に ー われわれに、当然の負目を報いたまうからではなく、かえって最高の善である汝に応わしきことを為したまう故に ー 義にまします理由である。それ故にかくの如く矛盾なく、汝が罰したまうことも善であり、赦したまうことも義である。
聖アンセルムス「プロスギオン」

2017年11月18日土曜日

砲弾の音をきいた途端に大地にひれ伏して、王自らが提督の頭や首にかけ数々の品を贈った。

 静穏なる君主よ、私は、彼らの言語を知る敬虔な宗教人が共に居れば、彼らは皆、今すぐにもキリスト教徒になるものと考えます。したがって両陛下が、このように偉大な民を教会に帰依させ、改宗させるために、機敏なる措置をとられ、かつて、父と子と聖霊にざんげしようとしなかった者共を滅亡させられたように、しかるべき決定をされますように、神に願うものであります。我らの命には限りがありますが、こうすることによって、両陛下も、生涯を終えられるときは、その王国を邪教や悪の汚れのないきわめて静穏な状態に置かれることになりましょうし、また永遠の創造主の前に喜んで迎え入れられることになりましょう。私は、創造主が、両陛下に末長き生命を与えられ、さらに広大な国や領土を与えられよう祈りますと共に、両陛下が聖なるキリストの教を今日まで弘めてこれましたように、今後もさらにこれを拡大させられるよう、そのための意志と資質を、創造主が両陛下にお与えになることを祈るものであります。アーメン。本日船を浜から下ろしまして、木曜日には神の御名において出帆し、黄金と香料を探し求め、かつ陸地を発見するために、西東に向かうつもりです。
 提督は手真似で、カスティリャの両国宝が、カリベ族を滅ぼして彼らの両手をくくり、皆連れてくるように命ずるだろうと語った。そしてロンバルダ砲とエスピンガルダ銃を打たしたが、その弾丸が非常な力で貫いて行くのを見て、彼は感心してしまった。彼らは、砲弾の音をきいた途端に大地にひれ伏してしまったのである。彼らは提督の所へ、耳や目や、いろんなところに大きな黄金片がはめこんでいる大きな面や、金製の飾物を持ってきて、王自らが、それらを提督の頭や首にかけて、また提督と同行して居たキリスト教徒達にも数々の品を贈った。提督はこのように贈物を見て喜び、かつ心慰められて、本船を失ったその苦しみも、悲しみも薄らいだ。そして本船が坐礁したのも、この地に根拠地を設定するようにとの神の思し召しによるものと解した。
クリストーバル・コロン「コロンブス航海日誌」

2017年11月16日木曜日

時に声あり胸中に聞ゆ、細くして殆ど区別し難し、尚ほ能く聞かんと欲して心を沈まれば其声なし。

   時に声あり胸中に聞ゆ、細くして殆ど区別し難し、尚ほ能く聞かんと欲して心を沈まれば其声なし、然れ共感霊懐疑と失望を以て余を挫かんとする時其声又聞ゆ、曰く「生は死より強し、生は無生の土と空気とを変じアマゾンの森となすが如く、生は無霊の動物体を取り汝の愛せし真実と貞操の現象となせし如く、生は人より天使を造るものなり、汝の信仰と学術とは未だここに達せざるか、此地球が未だ他の惑星と共に星雲として存せし時、又は凝結少しく度を進め一つの溶解球たりし時、是ぞ億万年の後シャロンの薔微を生じレバノンの常磐樹を繁茂せしむる神の楽園とならんとは誰が量り知るを得しや。最初の博物学者はけむし変じてまゆと成しときは生虫の死せしと思ひしならん、他日美翼を翻へし日光に逍遥する蛾はかつて地上に匍匐せし見悪くかりとものなりとは信ずる事の難かりたらん。暗黒の時代より信仰自由と代議政体が生まれ、「三十年戦争」の劇場として殆ど砂漠と成しドイツこそ今は中央ヨーロッパの最強国になりしにあらずや、地球と人類が年を越ゆる程生は死に勝ちつつあるにもあらずや、さらば望と徳とを有し神と人とに事えんと已を忘れし汝の愛するものが今は死体となりしとて何ぞ失望すべけんや、理学も歴史も哲学も皆希望を説教しつつあるに何ぞ汝独り失望を信ずるや」。
内村 鑑三 (愛するものの失せし時)「基督教徒のなぐさみ」

2017年11月14日火曜日

混乱した判断を下し、原因から認識する習慣が無い人々には、本体の性質には存在が属するの理解が困難であろう。

 物について混乱した判断を下し、また物をその第一の原因から認識する習慣が無い人々には、疑も無く、定理7 (本体の性質には存在が属する ) を理解することが困難であろう。なんとなれば、彼らは本体の様態と本体自身との間に何らの区別も立てず、また物が如何にして生じるかを知らないからである。その結果彼らは自然物に始が有ると思うゆえに、本体にも始が有ると考えている。何となれば、物の真の原因を知らない人は、すべての物を混同して、平気で、樹木が人間のようにものを言い、また人間が種子から生じ或は石から造られ、また一般にすべての形相が他の任意の形相に変じ得ると想像するからである。同様に、神性を人間性と混同する者もまた、如何なる仕方で感情が精神の中に生ずるかをまだ知らない間は特に、無造作に人間感情を神に帰する。

 これに反して、もし、人が本体の性質に注意を払ったならば、定理7の真理はもう疑われないであろう。実に、この定理は彼らに公理として認められ、一般概念の中に数えられるであろう。なんとなれば、彼らはかくてか本体を、自身の中に在りかつ自身によって考えられるもの、すなわち、その認識が他の物の認識を要しないものと解し、様態をば、他のものの中にあり、かつその概念がそれを包含する物の概念を予定するものと解するからである。そのために、われわれは存在しない様態についても、真の観念を有することができる、その故は、それらの様態は悟性の外に現実に存在しないけれども、その本質が他のものの中に含まれ、かくてこれによって考えられることができるからである。

バールーフ・デ・スピノザ「哲学体系 (原名 倫理学)」

2017年11月11日土曜日

存在それ自体の中に死があるのではなく、死せる観察者の、生を見る力なき眼に死が存する。

 存在ー存在と我はいうーと生とは、これもまた同一のものである。ただ生のみが独立的に、自己自身によって現存することができる。しかしてまた生は、生である限り、現存を伴うものである。普通には人は存在を、動かない、凝固して、死んだものとして考える。哲学者さえもほとんど例外なくそう考えて来た。存在を絶対者として言い表した場合でさえそう考えていた。このことは全く、人が生きた概念を以てにあらず、死んだ概念を以て存在の思索に向かったことに基づく。存在それ自体の中に死があるのではなく、死せる観察者の、生を見る力なき眼に死が存する。この誤謬の中に他のすべての誤謬の根源が存在し、此の誤謬のために、真理の世界、精神世界が永遠に我々の眼から閉ざされているのである、ということは、他の場所において、少なくともそれを理解し得る人々には、説明しておいた。このところにおいては、この命題の歴史的引用のみで充分である。
 これと反対にー存在と生とが同一のものである如く、死と非存在も同一のものである。上に述べた如く、純粋の死、純粋の非存在というものはない。しかし仮象というものはあるのであって、これは生と死、存在と非存在、との混和である。このことからしても次のことが帰結する。すなわち仮象の内部にあって仮象をして仮象たらしめるもの、仮象の中、真実の実在と生に対立しているもの、かかるものに関して言えば、仮像は死であり、非存在である。
ヨハン・ゴットリープ・フィヒテ「浄福なる生への指教」

2017年11月9日木曜日

戦闘的天性は抵抗を必要とする、抵抗を求める。復讐や怨恨の情の弱さと同じ必然さで、進攻的激情は強さに属する。

 戦はまた別個の物である。私は私の流儀から見て戦闘的である。攻撃することは私の本能に属する。敵であり得ること、敵であること ー それは恐らく一つの強い性質を前提とする、ともかくもそれはあらゆる強い性質を条件とする。かかる天性は抵抗を必要とする、この故にそれは抵抗を求める。進攻的激情は、復讐や怨恨の情の弱さに属するのとちょうど同じ必然さで強さに属する。攻撃者の強さの一種の尺準は、彼の必要とする対抗の中にある。あらゆる成長はより強大なる敵対者 ー もしくは問題を探究することの中に示される。何となれば戦闘的な哲人は、問題を引き出して来てまでも決闘をするからである。なすべき任務は一般に抵抗を征服するというのでなく、彼の力量や、自在や又練達した武芸の全体を打込むべき抵抗ー 対等の敵対者を征服するにある・・・敵との対等は ー 正々堂々たる決闘の第一条件だ。軽蔑している場合には戦をすることはできない。命令する場合、何ものかを自分の下に見る場合、戦はなされるべきでない。
フリードリヒ・ニーチェ「この人を見よ」

2017年11月8日水曜日

一族が滅び、夫が死んで、世のあらゆる人々に嘲笑されながら、不死の道を体得しました。

 「婦女の身であることは、苦しみである。」と、丈夫をも御する御者 ( ブッダ ) はお説きになりました。( 他の婦人と ) 夫をともにすることもまた、苦しみである。また、ひとたび、子を産んだ人々も (そのとおりで ) あります。
  か弱い身で、みずから首をはねた者もあり、毒を仰いだ者もいます。死児が胎内にあれば、両者 ( 母子 ) ともに滅びます。
 わたしは、分娩の時が近づいたので、歩いて行く途中で、わたしの夫が路上に死んでいるのを見つけました。わたしは、子どもを産んだので、わが家に達することができませんでした。
 貧苦なる女 ( わたし ) にとっては二人の子どもは死に、夫もまた路上に死に、母も父も兄弟も同じ火葬の薪で焼かれました。
 一族が滅びた憐れな女よ。そなたは限り無い苦しみを受けた。さらに、幾千 ( の苦しみの )生涯にわたって、そなたは涙を流した。
 さらにまた、わたしは、それを墓場のなかで見ました。ー 子どもの肉が食われているのを。わたしは、一族が滅び、夫が死んで、世のあらゆる人々に嘲笑されながら、不死 ( の道 ) を体得しました。
  わたしは、八つの実践法よりなる尊い道、不死に至る( 道 ) を実修しました。わたしは、安らぎを現にさとって、真理の鏡を見ました。
 すでに、わたしは、( 煩悩 ) の矢を折り、重い荷をおろし、なすべきことをなしおえましたと、キサー・ゴータミー長老尼は、心がすっかり解脱して、この詩句を唱えた。
「尼僧の告白 ー テーリーガーター ー」

2017年11月7日火曜日

みな死者にも敬虔な儀礼を尽くしているが、もし少しも死者と関わりがないならば、全然しなかったであろう。

  だがまた私は近頃こんなことを言い出した人達にも賛成ができない。その人々は肉体と一緒に精神も滅びるもので、死によってあらゆるものが無に帰するのだという。が私に対しては古代の人々の信念の方が一層重要である。たとえば我々の祖先にしてもみな死者に対してもあのように敬虔な儀礼を尽くしているが、もしそのようなことが少しも死者と関わりがないと考えていたならば、全然しなかったであろう。あるいはまた往昔この土地に住んでいて、今でこそ滅びてしまったが当時は栄えていた大ギリシアを種々な法制や訓示でもって教導した人々にせよ、またアポルロの神宣によって最も賢い者と定められた人物にせよ、皆然りである。彼は大概の人のように時に応じてあれこれと説くことをせず、いつも変わらずに持論として、人間の心というものは神に属するものであって、肉体を出離すれば即ち天上に登り帰還ことが許されている。そしてその心が優れて正しくあればあるほど、その帰途も容易であると説いたのである。
マルクス・トゥッリウス・キケロ「友情について」

2017年11月6日月曜日

心を公平に操り、正道を踏み、広く賢人を選挙は、能くその職に任ふる人を挙げて政柄を執らしむるは、即ち天意也。

   廟堂に立ちて大政を為すは天道を行ふものなれば、些とも私を挟みては済まぬもの也。いかにも心を公平に操り、正道を踏み、広く賢人を選挙し、能く其職に任ふる人を挙げて政柄を執らしむるは、即ち天意也。夫れゆゑ真に賢人と認る以上は、直ちに我が職を譲る程ならでは叶はぬものぞ。故に何程国家に勲労有る共、其職に任へぬ人を官職を以て賞するは善からぬことの第一也。官は其人を選びて之を授け、功有る者には、俸禄を以て賞し、之を愛し置くものぞと申さるるに付、然らば尚書、仲虺乃作誥に「徳懋んなるは官を懋にし、功懋んなるは賞を懋んにする」と之れ有り、徳と官と相配し、功と賞と相対するは此の義にて候ひしやと請問せしに、翁欣然として、其通りぞと申されき。
西郷隆盛「西郷南洲遺訓」

2017年11月5日日曜日

軍人の職業は、事実上及び本質上、人を殺すのではなく、人に殺されることにある。

 軍人の職業は、事実上及び本質上、人を殺すのではなく、人に殺されることにある。これに対して世間は、自分自身の真の積りはよく意識せずに、軍人を尊敬しているのである。凶漢の商売は人殺しであるが、世人は決して凶漢を商人以上に尊敬したことはなかったのである。軍人は自己の生命を国家に捧げていればこそ、世人は彼らを尊敬するのである。なるほど軍人は向こう見ずかもしれない、ー 享楽を好み冒険を好むかもしれない、ー また軍職を特に選択したのも実はあらゆる種類の副次的な動機や賎劣な衝動からであったかもしれない。したがってこれ等のものがその職業における彼れの日々の行動を( どう見ても見た所だけでは )左右しているかも知れない。しかし吾々の軍人に対する評価の根底には次の究極の事実 ー それは吾々が信じて疑わない所の事実 ー が厳存しているのである。もし彼れを要塞の破れた一角に置くならば、彼れの背後には浮世のあらゆる快楽があり、彼らの面前にはただ死と本分とのみあっても、彼れは断じて後を顧みないという事実である。実に彼れは何時何時自己の選択すべき生死の両頭が面前に置かれるかもしれないと常に覚悟している。ー 否、あらかじめ自己の死の役を引き受けたのである、ー 事実時々刻々そうした役を引き受けている、ー 否、実に「日々に死」んでいるのである。

ジョン・ラスキン (栄誉の基礎)「この後の者にも 」(経済の第一原理について )

2017年11月3日金曜日

狂気に精神状態が、精神錯乱における観念連合であり、固着観念における奇異な論理である。

 常識のあべこべには名称があるであろうか。疑いもなく、狂気の或る形態の中に、人はその急性のものかもしくは慢性のものに出くわす。それは多方面から固着観念に似ている。しかし、狂気一般も固着観念も決して我々を笑わすことはないであろう。なぜならそれは病気だからだ。それは我々の憐憫の情を起こさせる。笑いは我々の知っているように情緒とは相容れない。もし笑いを誘う狂気があるとしたなら、それは精神の一般的健康と両立しうる狂気、健全なる狂気とでも言えるものでしかありえないであろう。
 ところで、どの点からも狂気にそっくりの精神の健全な或る状態があって、そこに我々が見出すのは、精神錯乱における同様の観念連合であり、あるいは固着観念における同様な奇異な論理である。それは夢の状態である。そこで、我々の分析が不正確であるのか、でなければそれは次のような定理のうちに定式化されるものでなければならぬのだ。こうだ、滑稽的不条理は夢の中の不条理と同じ性質のものである。
アンリ・ベルグソン ( 性格のおかしみ )「笑い」

2017年11月2日木曜日

官吏は租税を取る、国民は租税を出す、取る者は多を欲し、出す者は少を欲するは人情なり。

 およそ国の患うべきは、国民の心の一致せざるより甚だしきはなし、書経の秦誓に紂有臣億万惟奥万心、朕有臣三千惟一心とあるのは、実に殷周の興亡する所以なり。印度は人口二億を有し、東洋第二の大国なりしも、国民の心の一致せざるよりして、竟に英国の侵掠を受け分裂滅亡の惨禍に罹れり。およそ何れの国にても、官吏は租税を取るの職にして、国民は租税を出すの職なり、取る者はその多からんことを欲し、出す者はその少なからんことを欲するは人情なり、これ官民の一和せざる所以なり。また国民が宗旨の同じからざる、学問の信ずる所の同じからざる、政治上の意見の同じからざる保守改進等は、何れも民心の一和を妨ぐる者なり。しかるに今道徳の学会を開き、同志の者は官民を論ぜず、宗旨の異同を問わず、政治の意見の如何に関せず、盡く合して会友となり、道を論じ教を説き、公道の従いて私見を去り、愛国心を先にして、一身の利害を後にし、胸筋を開きて互に相結ぶときは、国民の一和を固うするの方法是より善きは無かるべし。
西村 茂樹「日本道徳論」

2017年11月1日水曜日

人は、その畏るべきを見ざれば、必ずこれ慢易する、もし誉によりて自らを怠らば、則ち反って損せん。

 人は、その畏るべきを見ざれば、必ずこれ慢易する。一たび慢易の心を啓かせば、又何を以てか能くこれを治めんや。故に、君子は必ずこれに臨む荘を以てす。その衣冠を正しくし、その羨視を尊くし、邪気を出して、ここに狡猾に遠ざかるは、その荘を為す所以の方なり。今の士大夫には往々、挙措狡猾にして、以て自ら喜ぶ者あり、その意は、蓋しおもえらく、かくの如くにならざれば、以て人情に通じて人を服せしめ難しと。ああ、人情に通じて人を服せしむるものは、自らその道の在るあり。今、その道を以てせずして、この醜態を露はさば、吾れ恐らくは、その人を服せしめんと欲する者、まさに以て、慢易を導くに足ることを。
 人の已を誉むるも、已において何か加えん。もし誉によりて自らを怠らば、則ち反って損せん。人の已を謗るも、已において何かを損せん。もし謗によりて自らを強めば、則ち反って益せん。
佐久間 象山「省諐録」


2017年10月31日火曜日

形式的に等価な函数は函数として違っていても、同じ集合を定義するものと考えなければならない。

 もし集合を命題函数と同じものであるとみなすならば、完全な理論に近づくことができる。すべての集合はそれの要素に対して真となり、それ以外のものに対して偽となるような一つの命題関数で定義される。しかし集合がある一つの命題関数で定義されるならば、それはまたその函数が真であるとき真で、偽であるとき偽となるような他の命題函数でも定義される。従って集合をそのような命題函数の中の特別な一つと ー他のものをさしおいてー 同一視することはできない。そして一つの命題函数が与えられたとき、それが真であるとき真となり、偽であるとき偽となるような命題函数はたくさんある。そのように二つの命題函数を互いに形式的に等価であるという。二つの命題が共に真であるかともに偽であるとき、その二つ命題は等価であるといい、二つの命題函数がすべての値に対して常に等価であるとき、この二つを形式的に等価であるという。与えられた函数に形式的に等価な他の函数があるということは、集合と命題函数とを同一視することのできない理由である。二つの違った集合が全く同じ要素を持つということは望ましくないことであるから、形式的に等価な函数は函数として違っていても、同じ集合を定義するものと考えなければならないからである。

バートランド・ラッセル (第17章 集合)「数理哲学説」

2017年10月30日月曜日

富と人口の増大は、賃金の充分、不充分にて起る影響ないならば、何処も一般利潤は下落しなければならぬ。

 賃金の騰落は社会のすべての状態に共通であって、それが静止、進歩、後退のいずれかの状態にあるかを問わぬ。静止状態においてはそれは全く人口の増減に依って左右される。進歩状態においては、資本と人口の何れがより早く増大するかに依存する。後退状態においては、人口と資本の何れがより早く減少するかに依存する。
 経験の示す如く資本と人口とは交互に先導し、その結果賃金は充分であったりするのであるから、賃金の関する限りにおいては、利潤については何等積極的に述べるを得ない。
 しかしもっぱら富と人口の増大しつつある社会においては、賃金の充分、不充分によって起る影響を措いて問わないならば、農業の諸改良や、穀物がより低廉な価格で輸入れさることがない限り、何処においても一般利潤は下落しなければならぬことは極めて充分に証明し得るところであろうと余は思うのである。
デビット・リカード「農業保護政策批判 ー 地代論 ー」

2017年10月29日日曜日

理性から生じる主観的必然性すなわち習慣を以て知見から生じる客観的必然性と見なす。

  理性はこの概念に関して徹頭徹尾おのれ自身をあざむいて居る、理性が之を自分の子と思うのは誤りである、何故なら、この概念は所詮想像力の私生児に他ならぬからである、想像力は経験によって受胎して、或る表象を連想律の下に置き、それから生ずる主観的必然性すなわち習慣を以て知見から生じる客観的必然性と見なすのである、と。之によって彼は更に推論した ー 理性はかかる結合を唯だ一般的にさえ思惟するする能力をもっていない、なぜというに然る場合には理性の概念は単なる仮想であるだろうから。そして理性が先天的に成立する認識と自称するものはすべて虚偽の烙印を押された普通の経験に他ならぬであろうと、かくの如きはまさしく形而上学は決して存在しない、また存在することはできぬ、と主張するのである。

イマニュエル・カント (デイヴィット・ヒューム)「プロレゴーメナ」

2017年10月28日土曜日

殺人の衆きときは悲哀みて泣き、戦勝つときは喪礼を以て之に処る。

安民章第三

賢を尚ざれば、民をして争はざらしむ。得難き貨を貴ばざれば、民をして盗まざらしむ。欲すべきを見ざれば、心をして乱れざらしむ。是の以に聖人の治むるや、その心を虚しくしてその腹を実し、その骨を強くしてその志を弱からしめ、常に民をして無知無欲ならしむ。夫の知者をして敢て為さざらしむれば、即ち治まらざるなし。

易性章第八

上善は水の若し。水は善く万物を利するも争わず、衆人の悪むところに処る。故に道に幾きなり。居には地を善とし、心には淵なるを善とし、与ふるには仁なるを善とし、言には信あるを善とし、政には収まるを善とし、事には能あるを善とし、動くには時は能あるを善とし、動くには時を善とす。夫れ唯争わず、故に尤なきなり。


檢欲章誤植第十二
五色は人の目を盲ならしめ、五音は人の耳を聾ならしめ、五味は人の口を爽よしめ、馳騁田猟は人心をして発狂はしめ、得難き貨は人の行を妨げしむ。是の以に聖人は腹のためにして目のためにせず、故に彼を去りて此を取る。

偃武章三十一
夫れた佳兵は不詳の器にして物或は之を悪む、故に有道者は処らず。君子居れば則ち左を貴ぶも兵を用いるときは則ち右を貴ぶ。兵は不詳の器にして君子の器にあらず、已むを得ずして之を用いるときは、恬惔を上しとなして勝つも美しとはせず。而之を美しとすれば是れ人を殺すことを楽しむなり、夫れ人を殺すことを楽しむものは則ち志を天下に得べからず。故に吉事には左を上び凶事には右を上ぶ。是の以に偏将軍は左に居り、上将軍は右に居る。殺人の衆きときは悲哀みて泣き、戦勝つときは喪礼を以て之に処る。
老子


2017年10月27日金曜日

人は科学により幸福を得ないかも知れないけど、科学を失えば現在よりもさらに不幸となるであろう。

 吾らにして道徳上の真理を恐るべからざるものならば、同様に科学的真理をも恐れてはならぬ。特に注意すべきはこれが真に道徳と矛盾することはあり得ないということである。道徳と科学とはそれぞれ特有の領域を有し、互に接触はするけれども相侵すことは無い。道徳は吾らに努力の目的を教え、科学はその与えられたる目的に到達する手段を知らしめる。かく両者を異にするが故に相対することはあり得ない。科学的道徳の存在し得ざると同様に、道徳に反する科学は存在し得ざるものである。

 人の科学を恐るるは、主として科学が吾人に幸福を与え得ざるによる。あきらかに科学は吾らに幸福を与えることはできぬ。吾らは科学を有せざる獣類が人間よりも苦痛を感ずること少なからざるかと疑う。併しながら人間ははたして獣類と同じく自己の死すべきを知らざるによりて不死的なるこの地上の楽園を追慕する事ができるだろうか。すでに禁断の果実を味った以上、人は苦痛のためにその味を忘れることなく、かえって常に回想希求する。人は科学によって幸福を得ないかも知れぬけれども、しかも今日科学を失えば現在よりもさらに不幸となるであろう。

アンリ・ポアンカレ「科学の価値」

2017年10月26日木曜日

真理を所有、信ずることは、いつでも個々の結論を、一つ残さず繰り返す以外には手がない。

 真理を、別のもっと単純なものに引き直せることの可能性にこそ、たとえその引き続いた結論の系列が、そんなに長く人工的なものと見えようとも、つぎのことのたしかな証拠があると認めるのである。すなわち真理を所有すること、または真理を信ずることはどんなときにも内的直観によって直接に与えられるものではなくて、いつでも個々の結論を、程度の差はあるにしても、一つ残さず繰り返す以外には手がないということである。このことを、一つ一つ追求して行くのに困難な思考活動を迅速に遂行する理由で、完全に熟練した読書家が読書に当って処理することと比較してもよいだろう。この読書という理由で、完全に熟練した読書家が読書に当って処理することと比較してもよいでしょう。この読書というものも、いつでも多少の差はあれ一歩一歩を残らず繰り返すことであって、初学者はことを骨の折れる一字一字の判読によって遂行しなければならないが、熟練した読書家にとってはその骨折りのごく少しの部分で、従って精神を労することも努力することもはなはだ少なくて、しかもただしい真の言葉をの意味を捉えることができる。
リヒャルト・デーデキント「数についてー連続性と数の本質ー」

2017年10月25日水曜日

愛国心は最大の危険であり、愛国心の毒々しさを増大するのは、天災、疫病、飢饉よりも恐るべきである。

 疑いもなく、言うところの愛国心は、文明が現在さらされている最大の危険であり、なんであれ愛国心の毒々しさを増大するものは、天災、疫病、飢饉よりも恐るべきものである。現在、若者たちの忠誠心は、一方では親に、他方では国家にというふうに、二分されている。万一、若者の忠誠心が国家にのみにささげられるようになれば、世界は現在よりも一段と残忍なものになる、と危惧するべき理由は十分にある。したがって、国際主義の問題が未解決のままであるかぎりは、子供の教育と世話を国家が分担する量が増えることには、その明白な利益を上回る由々しい危険がある、と私は考えている。
 もしも、国家が国際主義的であるなら、国家が父親の肩代わりをすることは文明にとって利益であるが、国家が国家主義的で軍事的であるかぎりは、戦争が文明なあたえる危機が増大することになる、ということである。家族は、急速に衰退しつつあるが、国際主義の成長は遅々としている。だから、事態は、大いに憂慮されてしかるべきである。それでも、望みがないわけではない。将来は、国際主義が、いままでよりも急速に成長するかもしれないからだ。われわれに未来を予測することができないのは、あるいは幸運なことかもしれない。だから、われわれは、未来が現在よりもよくなることを期待する権利はないにせよ、希望する権利はあるのである。

バートランド・ラッセル「ラッセル結婚論」

2017年10月24日火曜日

武士が政権を握ったのは武力の優越ではなく、土着の農家として土を支配し土から富を支配した。

 江戸時代になると、同じ血をわけた一族同胞の中でも、専門の武士となった人々はあっさりと土と縁を切って城下町に住む都会人となり、村に居残って専門の農業となった人々を「土百姓」とさげすみ、ただ年貢をとりたてたるほかに用のない者と思うようになったのでした。侍と百姓とがまるで別々の世界に住む、別々の人種のようになっていたことは、この村の草分けの時代と面白い対照をしているように思われます。
 武士が政権を握ったのは単なる武力の優越によるのではなく、土着の農家として土を支配し、土から生ずるいっさいの富を支配してたから、つまり土に根をはった強い経済力の上に立っていたからでした。それが単なる都会の消費者となり、生産には無関係、無関心となり、しかも生活程度は高まり、農村から取り立てた物を費やすばかり。したがって農村を衰微させるとともに、他方では商業の発達によってその方に生血を吸い取られて痩せ細る一方でしたから、結局大黒柱には白蟻のついていた同様の武士の政権が、黒船のひと揺すりから、あっけなく傾き出したのも不思議ではありませんでした。
山村 菊栄「わが住む村」

2017年10月23日月曜日

金銭の際限なく蓄積せられ得るという事は、外物に対する貧欲に我らを支配する力を与えた。

    理性活動に何よりも内面的な優秀が必要な如く、国家においてもこれが肝要である。外物は共同生活においてすら、唯活動のための手段としてのみ価値を有する、それはかくして定められたる制限を越えてはならぬ。しかし多数者の際限なく富を重ね積もうとする渇求が、その中に困難なる障害を持って来る。こんなものの中に真の幸福を見出そうとする妄想は、金銭が入り来ったため恐ろしく増大してきた。金銭の際限なく蓄積せられ得るという事は、外物に対する貧欲にいやが上にも我らを支配する力を与えた。かくて国家的社会もまたそれに対して強く戦わねばならない。国家が自らに対して、活動の発展に要するよりも以上に、外的手段を得んと努むべきではないと同じく、国家はまた市民の利得の念に程よき自然な制限をおき、そして特に金銭の支配に対して力を用いるを要する。すなわち確かなまた明らかに認め得られる生活標的によって外物に厳に限界を与えることと、社会の幸福と個人のその一致ということである。

ルードルフ・オイケン (アリストテレス) 「七大哲人」

2017年10月17日火曜日

あらゆる自然は、互いに分離して中間に空所のはいりこむことを嫌悪する。

 あらゆる物体は、互いに分離してその中間に見かけの空所のはいりこむことを、嫌悪する傾向を持っている。いいかえれば自然はこの見かけの空所を恐れている。あらゆる物体が有するかかる恐れ、もしくは嫌悪は。見かけの空所が小さいときよりも大きいときに、一そう甚だしいというようなことはない。いいかえれば、その中間の場所の大小の如何にかかわらず、一様の強さで、これを避けようとする。この恐れの強さには、しかし、限度がある。それは、一定の高さすなわちおおむね31ピエの高さの水が下方に流れようとする強さに相当する強さである。この見かけの空所に接している物体は、そこを満たそうとする傾向を有する。空所を満たそうとするこの傾向は、見かけの空所が小さいときよりも大きいときに、一そう強いというようなことはない。この傾向の強さには、おのずから限度がある。そしてそれは、一定の高さすなわちおおむね31ピエの高さの水が下方に流れようとする強さに、つねに相当する強さである。31ピエの高さの水が下方に流れようとする強さよりも、ほんの少しでも強さが増せば、この増しただけの強さで以て、いかに大きな見かけの空所をも生じさせるのに十分である。いいかえれば、この見かけの空所に対して自然がいだいている恐れのほかに、物体の分離や疎隔を防げるものが何も存在しないならば、増しただけの強さで、物体を分離させ、いかに大きな空間わも生じることができる。

フレーズ・パスカル (真空に関する新実験)「科学論文集」

2017年10月15日日曜日

大国民が急速に上昇した時代は、臆病、固執、無気力、主動力の欠如という独自の異常な性格を受けとった。

 君はおそらく、非常に本質的な相違があらわれることに気がつくでしょう。ドイツでは、小市民は、失敗に帰した革命の、中断され押し戻された発展の結実であり、三十年戦争及びそれにつづく時代ーちょうど他のほとんどすべての大国民が急速に上昇した時代ーによって、臆病、固執、無気力、及びあらゆる主動力の欠如という独自の、異常に作りあげられた性格を受けとったのです。この性格は、歴史的運動が再びドイツをおそったときにも、ドイツ小市民のものとしてとどまりました。この性格は、ドイツの他のすべての社会階級にも、多かれ少なかれ一般的なドイツの典型として自己を押しつけるに十分なほど協力でした。そして遂に、わが労働階級がやっとこの狭いかこいを突き破ったのでした。ドイツ労働者階級がやっとこの狭いかこいを突き破ったのでした。ドイツ労働者は、ドイツの小市民的固執をすっかり振り払ったという点でまさに、最もひどく「祖国をもたない」のです。
 小市民文学について(1890年6月5日、フリードリヒ・エンゲルス)
「マルクス・エンゲルス文学論」

2017年10月12日木曜日

勝利して以来、指導者達は、一般的精神生活を支配し教会の配下に置こうと努めた。

 教会がコンスタンティンの時勝利を博して以来、その指導者達は、一般的精神生活を支配しすべてを教会とその精神との配下に置こうと、努めた。すでに久しい以前から着手されていた基督教とローマ帝国ならびに古代文化との融合事業は、驚くべき速度を以って完成された。今や初めて、基督教と古代哲学との結合が成立した。有利な条件の下に再び、西欧と東洋、ローマとギリシャ間の活発な交通が可能となった。ラテンの教会は、東西両教会教会分裂の直前にあたり、ギリシャ的学問の資本を供給された。人々はあたかも、目前に迫れる運命を、野蛮人侵入の暗夜を、予感していたかのようであった。教会の強固な建築は大急ぎで仕上げられた。ギリシア哲学の中で役立つと思われるものは教理学の中に取り入れられ、他はすべて危険思想もしくは異端的教へとして退けられ、次いで漸次克服された。人々はローマ帝国の勝れた組織法から借りて来て、教会組織に関する制度を補った。教会法はローマ法に範をとった。礼拝規則は改良され、詳細に規定された。古代の異教的密儀教中荘重にして注目に値するものは、既に久しき以前から模倣されていたが、今更に一層荘厳な調子、卓越した思想と儀式的形式との不思議な一致が、こうして成立した。
フォン・ハルナック「アウグスティヌスの懺悔録」

2017年10月11日水曜日

代表者は弁護士として出てはいけない。自己の見解をも偏見なき裁判官として判決をする義務がある。

 道なき道に立つ者にとって最大の危機と誘惑とは、自己の說明の仕方に問題はないということを余りにも大きく確信することである。その說明の仕方そのものは正しいが、その者にとってそれが適合しない場合に用いられているかもしれない。ともかく、応急の說明を工夫して、これによって見かけは巧みに自身を救い出すことに成功することはできる。しかし代表者は弁護士として出てはいけない。自己の見解をも偏見なき裁判官として判決をする義務がある。事実という岸壁にぶつかるときは、無理を通すべきではない。後ろへ戻って他所に出口を求むべきである。自己の認識まは他人の正当な異論に強いられて、自分の好きになった解釈を求めようと決心した者は、火の試練に堪えたのである。後になってから、自分の途上の障害と見えたものは、実は自分を新しい小径へ連れて行き、この小径は自分を先に導きもし、自分に広い見透しを与えてくれたものであるということが、ますます明らかになるであろう。
カールレ・クローン (結語)「民俗学方法論」

2017年10月9日月曜日

我々は自分達が意識的にはどうにもできない幻の中を動いているのだ。

 我々は眠りに落ち入ると薄暗い古代の影の棲家に入る。覚醒時のあの外界からは何の直接光線も照らしてくれぬ。我々は、我々自身の自覚的な意欲なしに、その部屋々をあちこちと連れて行かれる。我々はそのカビの生えた朽ち果てた階段を転がり落ち、神秘に満ちた奥深い所から来る不思議な音や香りに付きまとわれる。我々は自分達が意識的にはどうにもできない幻の中を動いているのだ。我々は再び日常生活の世界に浮かび上がって来ると、一瞬陽の光が、我々が後に閉める戸の閉ざされぬうちに、薄暗い家の中にちらっと射すように思われる。そこで我々は今まで中をさま迷っていた部屋々を、まざまざと垣間見るのだ。そしてごくわずかながら、今までその所で送っていた生活についての多少の断片的の記憶がよみがえってくるのである。
ハヴロック・エリス (緒論) 「夢の世界」

2017年10月8日日曜日

省察ほど容易に君を他人の嗜欲や奸計から防護するものも他にはない。

 人間が人間に贈りうるもののうちで最も心おきない贈物は、人間が心情の奥底で自分自身に語ったものをおいて他にない。それはあらゆる神秘のうちの最も神秘なものを、自由な本質を洞察するあの広い無垢な眼を与えてくれるからである。また、これ以上に信頼のおける贈物は他にない。その訳は、親しい友人を純粋に直感することから生じるあの歓びが生涯を通じて君に付きまとい、また内的な真理が君の愛をしっかり捉えて、君をしばしば進んで省察へと立ち帰らせるようにするからである。更に、これほど容易に君を他人の嗜欲や奸計から防護するものも他にはない。そこには不当なものを誘い寄せたり、劣悪な目的に濫用されたりしそうな誘惑的な附属物はないからである。

フリードリヒ・シュライエルマッハー (献辞)「独白録」

2017年10月5日木曜日

古代の信仰に対し、直ちに近代の思想の立場よりこれを律するは不公の甚しき者也。

 古代の信仰に対し、直ちに近代の思想の立場よりこれを律するは不公の甚しき者也。当時においては有する自然の力は、神聖なりと思惟されき。就中創造生殖の力は、その最高位を占める者なりき。光熱をもて土地を受胎せしむる太陽を崇拝するも、動物界における一般生殖の源たる男女の生殖器を崇拝するも皆なこれ生々の力を崇拝するのに外ならず、かくして吾人は有ゆる古代の彫刻において、男女の生殖器が、自然のままにもしくば表号的に描写せらるるを見ん。しかしてこれらの描写の方法もまた文明の進むに従って、ますます習俗的になり、技巧的となり、諸種の改良修補を加へ、すなわち幼稚の世界においては、創世記にいわゆる『裸体にして恥ざりき』者、長じるに及んで、あるいは人間の形を着け、さらに宗教的表号をもってこれを飾る。しかもその者は服装のために変化せざるが如く、縦令妙なる表号をもっておおうも、その思想観念は依然として同一なるを知らざる可らず。

幸徳 秋水「基督教抹殺論」

明治天皇の暗殺計画の冤罪で1911年1月24日に大逆事件の死刑となった。

2017年10月4日水曜日

あらゆる義務は法則による強制の概念を含んでいる。

 あらゆる義務は法則による強制の概念を含んでいる。とりわけ倫理的義務は内的立法のみが可能であるような強制を、これに反して法的義務は外的立法もまた可能であるような強制を含んでいる。それ故両者が強制の概念を含んでいる、それが自己強制であろうと、他社による強制であろうと。かく前者の道徳的能力は徳とよばれ、かかる心情(法則に対する尊敬)から発する行為は徳行為(倫理的)と呼ばれ得る、たといその法則が法の義務を告げるにしても、何となれば人間の権利を神聖に保つように命ずるのは特論であるから。        併し徳を行うということは、それがためにまだ直ちに本来の徳の義務なのではない。前者は単に格率の形式にのみかかわることができるのに、後者は格率の実質に、すなわち同時に義務として考えられるところの目的にかかわるのである。ー ところが目的 ー これは数多く存在し得るが ー に対する倫理的責任は広い責任であり、ー 蓋し倫理的責任はその場合単に行為の格率に対する法則のみを含むから ー そして目的は執意の実質(対象)であるから、合法的目的の相異るにつれて相異る諸々の義務が存在するのであり、これらの義務が徳の義務と名づけられる、まさしくかく名づけられるわけはこれらの義務は単に自由な自己強制に属していて、他人の強制には属しておらず、同時に義務であるところの目的を規定するからである。

エマニュエル・カント (特論への緒論) 「道徳哲学」

2017年10月2日月曜日

平民等の務めは只働いて服従することがあって、疑いを抱いてはならなかった。

  謀叛に対する警戒として、平民は帯刀を禁止せられていた。平民の行動を監視するために、たくさんの目付が置かれていて、少しでも不満の様子があれば厳罰に処せられた。沈黙の恐怖が平民につきまとっていた。というのは凡ての壁に耳が生えているように思われたから。彼等の務めは只働いて服従することがあって、疑いを抱いてはならなかった。如何に富裕で諸芸に通じていても、平民と生まれたものは平民に終わらなければならなかった。峻厳な慣例と掟に囲まれていたので、平民の勢力は、その捌口を浮薄の生活かさもなければ世をはかなむ宗教に求めねばならなかった。宗教は、比較的真面目な平民にとっては印度の熱心な帰依者の間に明かに現れている彼の仏の御慈悲を専らにしようとして、阿彌陀佛の大慈大悲を頼むにあったというということに何の不思議があろう。比較的薄志弱行の輩が、馬鹿げ行いを理想化して已を忘れようとつとめたことを、咎め立てすることが出来ようか。
岡倉 覚三「日本の目覚め」

2017年10月1日日曜日

多数者の『権利』なるものは、強者の権利であって何等の道徳的根拠を有するものではない。

  もとより、時として個人の生活を『社会のために』犠牲にするに躊躇するものではない。けれども、ここで熟考せねばならぬ。このとこは、実に唯だ諸他の個人が彼等の生存を全うし得んがためにのみなされるのであろうか。集団の単なる生存が個人の単なる生存を左右し得る如き道徳的権利は、果して存在するであろうか。もとより自然においては、多数者が少数者を犠牲にして自己を保存しはする。然しもっぱら多数者の『権利』なるものは、強者の権利であって何等の道徳的根拠を有するものではない。逆に我々の道徳的希望が、集団の生存を一個人もしくは少数者の生存のために犠牲に供せられる場合に問題となるところのものは、単なる生存ではなくて生存するものの価値である。個人といえども独立的価値を有し得るのであるから、我々は決して個人を、如何ばかり多数にもせよ諸他の個人の単なる生存のために犠牲にするべきでなかろう。
ヴィルヘルム・ヴィンデルバント『道徳の原理に就て』

2017年9月30日土曜日

不死であって永遠に生きると死を軽んじむしろ喜んで自ら死に赴く有様であった。

 これらの気の毒な人々は、自分達がそのまま不死であって、永遠に生きるものであるということを語りあっていて、従って彼等は死を軽んじ彼等のうち多くの者はむしろ喜んで自ら死に赴くものさえあるような有様であったから。そこへ彼等の最も尊敬する立法者が、彼等に向かってこういう見解を述べた。すなわち彼等が改宗するや否や、換言すればギリシアの神々を否認し、かの十字架にかけられたソフィストの礼拝を承認して、その訓えに従って生活するようになれば、それでもう彼等はすべて兄弟になったのであると。— 教え、それを彼等は誠実と信頼をもって、何の吟味も確証も経ることなしに、採り入れたのである。そこでもしその場合の事情を狡猾に利用することを心得ている熟練した詐欺師が彼等の間に入ったなら、彼はまたたくまに富者となって、これらの単純な馬鹿どもを心中秘かに嘲ることが出来たことだろう。

フリードリヒ・エンゲルス「原始基督教史」

2017年9月29日金曜日

彼らが善であると思って求めていたものが、実際には悪であっただけのことではないか。

メノン: 悪しきものが有益であると信じてそれを欲する人もあるし、害をなすと知ってそうする人もいるでしょう。
ソクラテス: いったいその場合、悪しきものが為になると信じている人々は、その悪しきものが悪しきものであるということを知っていると思えるかね ?
メノン: その点になると、そうは思えません。
ソクラテス: すると明らかに、その人たちは、悪しきものを欲しているのではないということになりはしないか。悪しきものであることを知らないのだから。むしろ、彼らが善であると思って求めていたものが、実際には悪であっただけのことではないか。したがって、それと知らずに善きものだと思っている人たちは、明らかに善きものを欲しているのだということになる。そうではないかね。

プラトン「メノン」

2017年9月28日木曜日

人が自然において見るところのおのれは死である。死を見ることによって人は生を自覚する。

 外なる自然は死の脅威をもって人に迫るのみであり、ただ待つものに水の恵みを与えるということはない。人は自然の脅威と戦いつつ、砂漠の宝玉なる草地や泉を求めて歩かねばならない。そこで草地や泉は人間の団体の間の争いとなる。すなわち人は生きるためには他の人間の脅威とも戦わねばならなぬ。ここにおいて砂漠的人間は砂漠的なる特殊の構造を持つことになる。人と世界との統一的なるかかわりがここではあくまでも対抗的・戦闘的関係として存する。人が自然において見るところのおのれは死である。死を見ることによって人は生を自覚する。すべての「生産」は人の側にあり、従って外なる自然の生産を「恵み」として持ち望むことはできぬ。草地と泉と井戸とを自然より戦い取ることによって人は家畜を繁殖させる。「埋め、殖やせ」が死に対する生の戦いである。

和辻哲郎「風土ー人間的考察ー」

2017年9月27日水曜日

悪業を離れることのできぬ悪人には悪業を離れることのできぬ悲しみがある。

 善事をなすものは善人、悪業を離れることのできぬものは悪人である。しかしまた悪人には悪業を離れることのできぬ悲しみがあり、善人には善事を頼むということもあろう。そこに善人には自力の限界を知らざる限り、本願他力に帰するということがないという迂遠さがある。けれども悪人は大悲の願心をきいて直下に身心に応えるものがあるであろう。まことに深重の本願である。
 それ故に自力作善の人は、弥陀の本願の正機ではなく、他力をたのみてたてまつる悪人は、最も往生の正因を身につけしものである。

唯円「歎異抄


2017年9月24日日曜日

現象が「本来」如何なる性状は、『受納性』の経験ではなくて、思惟、理性であろう。

 一連の精神状態は、啓示の出現そのものという歴史的事実を疑うか、或いは啓示の内容の信じるに足るべきや否やを疑うことによって、『啓示』の真理性を疑い始める。啓示は、何等、知の源泉ではなくして、知の源泉は経験と思惟のみだというのである。
 しかしながら、『その背後』に存在するものについて我々に知識を与え、且つまた我にとりしかじか現象するものが「本来」如何なる性状のものであるかを知らしめるものは、純粋な受容すなわち『受納性』の意味での経験ではなくて、思惟、理性であろうと考えるに至る。
 そこで人は純粋理性を地盤として、世界の由来、神、不死の霊魂について思惟し語るのである。人はいう、それはそうあらねばならぬ、それを人は観照という特別な『直感力』能力によって『観る』のである。
 ただ遺憾なのはその際観る人がそれぞれちがったものを観ていることである。なおまた遺憾なことには、このいわゆる観照なるものには、願望や希望が全く顕著に混ずることである。しかも、観照に説得力が欠けているのはいうまでもない。
ハンス・ドゥリーシュ「形而上学」

2017年9月23日土曜日

かれは死というものは、その後に永劫不滅が従うのであるから、嘆くにはあたらぬと考えている。

 かれは死というものは、その後に永劫不滅が従うのであるから、嘆くにはあたらぬと考えている。実際、そこにはなにか死ぬという知覚が、たとえそれが、特に老人においてはつかのまのことであろうと、存在し得るであろう、がしかし死後には、そこにのぞましい知覚があるか、それとも全くないかである。だがこういうことは、われわれが死に無頓着にならんがため、若きときから須く熟考しておかなくてはならない。そういう熟慮反省がなくてはだれも落ち着いた心境にあることはできなぬ。なぜなら死ぬということは定まっている。しかもそれが今日という今日でないと定まっていない。であるから、死がいまにもおしよせてくるようにおじ恐れていたのでは、誰が心のなかでじっとしておられようぞ。この問題については、さほどながたらしい議論には及ばないとおもう。

 マルクス・トゥッリウス・キケロ (第20章)「老境について」

2017年9月21日木曜日

世界征服者が戦捷の行軍の日、領土の境界から貢をまぬがれている民をして貢せしめる。

 古い時代の世界征服者が、戦捷の行軍の急速のある一日、その領土の境界を一層詳しくたしかめ、貢をまぬがれている民をして貢せしめたり、或いは砂漠にあって摩下の騎兵隊の打ちかち難しい困難を知り、自分の威力の一つの制限をしらそうと欲するでもあろうように、吾々の時代の世界征服者である自然科学が、その祝宴の機会に祭し、日頃の仕事を休んで、領土の真の限界を一度はっきり画取ろうと試みることも妥当を欠いた企画ではないであろう。かくいうのは、現在自然認識の限界について二つの誤謬が広くゆきわたっていることを信じるからであり、且又私の試みようと如き考察が、一見平凡なことであるにかかわらず、以上の誤謬とは何等関わりのない人達に対しても、幾分の新しい寄与をするということもまた有り得ないことではないと思うため、なおさらこの試みを正当なものと考えるからである。

デュボア・レーモン「自然認識の限界について・宇宙の七つの謎」


2017年9月18日月曜日

教会が同じ考えをいだかせるように、教会のきめた意向にそむくものは異端者と見なされた。

 民間信仰は中世をつうじてヨーロッパのどこでもおなじであったと思ったら、それは大まちがいだということである。善の力、つまりイエス・キリストの国についてはヨーロッパじゅうのものが同じ考えをいだいていた。またローマ・カトリック教会が同じ考えをいだかせるようにほねおってきた。この点については教会のきめた意向にそむくものは異端者と見なされた。けれども悪の力、つまりサタンの国については所によっていろいろとちがう意見がひろがっていた。ゲルマン語系の北方の民族はこのサタンの国についてはローマン語系の南方の民族とはまったくちがった考えをいだいていた。これは次のような事情でおこったことだ。つまりキリスト教の牧師らはそこにいあわせた古来の民族信仰の神々をまったくの妄想として否定しまわないで、じっさいに存在するものとしてみとめたのである。けれどもみとめながらもこう主張した。「これらの神々はすべて男性か女性のあくまである。イエス・キリストが勝利をえたので、これらの神々は人間を支配する力をうしなってしまって、今では肉のよろこびやわるだくみによって人間を罪にさそいこもうとしているのだ。」ギリシャの神々のすむと云われるオリンポスの山は天空にある地獄になってしまった。
ハインリッヒ・ハイネ「ドイツ古典哲学の本質」

2017年9月16日土曜日

人間性の本姓に生理的なもの、獣的なものを明らかに示そうとする。


 第一に文学は重圧の感情に表現を与えようとする。社会生活の秩序は既に古く、老い朽ち、風にも堪えぬ脆弱なものになってしまったという。パリでは新しい文学が社会主義と隣り合って、凄んでいる。この作家たちは描写する、描写しながら分析をする。彼等はこれに酔う、そして已が手でその疾病と死を摘別する。しかして事実の表現において真実に忠実であり徹底的かつ的確でなければ解決は得られない。随って第二に新しい文学、美術は自然主義であろうとする。それは現実的なものをあるがままに露わにし、分析しようとする。この文学の最も著しい傾向は、何よりも先ず人間性の本姓の裡に生理的なもの、むしろ獣的なもののあるのを明らかに示そうとするところにある。それは抗い難い本能であって、ただ治世のみがその道を照らし得るのである。

ヴィルヘルム・デルタイ「近代美術史 ー 近代美学の三期と現代美学の課題 ー」

2017年9月15日金曜日

動物が、他の完成を遮断し、自らのうちに存する原理によって感覚し、運動し得るもののみを意味する。

 もし動物が、他の完成を遮断し、自らのうちに存する原理によって感覚し、運動し得るもののみを意味すると仮定すれば、かかる場合には、他のそれ以上の如何なる完成が、加わり来ようとも、所詮その添加物は、動物に対して部分という関係に立ち、決して、動物の概念のうちに内含的に保持されるものという関係には立たぬであろう。すれば動物は類ではないことになる。しかるに、実際、動物は、それの形相から (ただ単なる感覚的精神であろうと、或いは同時に感覚的であり理性的である精神であろうとに論なく) 感覚と運動とが、そこから出で来り得るが如き何物かを意味する限りは、類である。ゆえに、類は、種のうちに存するところのものすべてを ー なぜなら、類は、単に質料のみを意味しないから  ー 非限定的に意味しているのである。
聖トマス・アクィナス「形而上学叙説 ー 有と本質とに就いて」

2017年9月14日木曜日

少なくとも位階とか称号とが、普通人の眼には、貧困者はつまらぬものに見えるのである。

 外面的の幸運の事情の内にも、少なくとも人間の謬見によって、これ等の感情を起させるものがある。門閥や称号やを、人々は普通尊重する傾きがある。功績に基づかないで得た富も亦、利己的でないものからすら尊敬されることがある。これは察するに、富の観念と、これによって仕遂げることのできる大事業の計画とを結びつけるからであろう。斯かる行為を決して為ないであらうし、また富を価値づける唯一の根拠たる高貴の感情に何等理解を持たない金持の賤夫共に、此尊敬の与へられることも、折々はある。貧困の禍を大きくするものは、其貧困者に社会的の功績があった場合でも、全く帳消しにして了ふことはできないで、つまらない者とすることである。少なくとも位階とか称号とがあって此粗末な感情を欠き、其人を幾らか尊敬せしめる様な事がなければ、普通人の眼には、貧困者はつまらぬものに見えるのである。

イマヌエル・カント (一般人類に於ける崇高と美との性状について) 「美と崇高との感情性に関する観察」




2017年9月13日水曜日

皆ことごとく欲の戦争にして、自己の不満を他人の上に洩せしものなり。

  人おのおの不満あり、彼は思えらく、われに富あらしめば我足らんと、しかして富彼に来りて彼なお平安を得ず、我に善良なる妻ありせば我足らんと、彼に幸福なる家族あるありて彼なお足らず、人は内部の欠乏を認めずしてこれを外部に認め、内を満たさんとせずして外に得んとす、我の敵は我なる事を知らずして、内に在する苦痛は外に漏らさんとす、汝らの中の戦闘と争競は何より来りしや、汝らの百体の中に戦う所の欲より来りしにあらずや、しかり世の始めより今に至るまですべての戦、すべての争の原因を究め見よ、皆ことごとく欲の戦争にして、自己の不満を他人の上に洩せしものなり。
内村 鑑三 (悲嘆)「求安録」

2017年9月12日火曜日

『基督論』の宗教が武器と変じ、かくして戦慄と恐怖とを散布せしめた。

 わずかな意見の相違に基いて兄弟の交わりが絶たれ、多くの人は辱められ、放逐され、獄に繋がれ、または殺戮された。それは悲惨な歴史である。『基督論』が因になって、人々は彼等の宗教的教訓を恐るべき武器と変じ、かくして戦慄と恐怖とを散布せしめた。この態度は今もなお持続し、しかもなお持続し、あたかも福音には他には問題はないかのように基督論は取り扱われ、それに伴う狂熱は今日もなお止まない。かく歴史上その様な重荷を負わせ、党派を引き続かせた問題が、今なお未解決であることを誰が不思議としよう。しかも、捉はれない眼をもって福音書を観察する者にとっては、イエスの自己証明の問題は決して解けないものではない。ただしその中に理解に難く秘密なものがあれば、イエスの意味する所によりかつ問題の性質に従い、そのままにしておくべきであり、ただ象徴の形で言い表し得るのみである。『この世の現象の中には、象徴の助けなしには人間悟性の複雑せる表象の中に持ち来らせられないものがある。』
アドル・フォン・ハルナック (福音と神の御子ー基督教の問題)「基督教の本質」

2017年9月11日月曜日

憐れみは、卑下の欲求であり、下ろうとするあこがれである。

 道徳的感情も同じ種類の研究にゆだねられると思う。例えば、憐れみを考察しよう。哀れみは先ず第一に、他人の位置に思想上で我が身を老いて、その苦しみを苦しむことにある。けれども、ある人達の主張したように憐れみがそれだけのものにすぎないならば、苦しみは我々に自ずと恐れを抱かせるから、憐れみはみじめな人々を救うよりはもこれを避ける念を我々に抱かせるはずである。この恐れの感情は憐れみの起りにはあるかもしれないが、間もなく新たな一要素が、他の人々を助けてその苦しみを和げてやりたい欲求が、そこに加わってくる。
 他人の不幸が我々に抱かせる同情のうちにも、多分恐れは事実何らかの位置を占めるものとして入るであろう。しかし、それはいつも低級な形の憐れみでしかない。本当の憐れみは、苦しみを恐れるよりはむしろ苦しみを望むことにある。それはほとんど実現されるのを願うか願わないかのかすかな望みであるが、それにもかかわらず、自然が何か大きな不正を犯しでもするので自然との凶暴のあらゆる疑いを覗かねばなんらないかのように、自己にめぐってつくる望みである。つまり憐れみは、卑下の欲求であり、下ろうとするあこがれである。
アンリ・ベルグソン (第一章 心理状態の強度について)「時間と自由」

2017年9月6日水曜日

悲劇は魂を高調に導き、高揚せしめんと期待するものである。

 問題の解決は、悲劇が文学の最高部門として認められているために、特に困難であるように思われる。悲劇は魂を高調に導き、また我々を高揚せしめんとするものである。ゆえに人は悲劇において、至高・至貴・至福なる姿を、またー言い得えればー最も神に適き姿を見ることを期待するかも知れぬ。しかるに悲劇が事実我々に示すところのものは、これと甚しく異なっている、ー即ちそれは専ら苦悩であり没落ーしかももますます極めて優れた人々の没落であり、また劇場、犯罪或いは狂気等である。
 しかも悲劇は、更にこの他に一見不可解な矛盾を含んでいる。喜劇においては個々の要素がいかに不合理であるにせよ、なおその全体は少なく共に一種の満足な表情を与えるけれども、悲劇にはかくの如きもの存せず、会々存するとしても極めて稀有な場合に限られている。実際、事件はおおむね極りなき葛藤の解決を告げ、顧客は悲しみに覆われた心を懐いて劇場を辞するのを常とする。
フランツ・ブレンターノ (悪)「天才・悪」

2017年9月5日火曜日

大和魂を以て鍛錬した鋭利な日本刀で手当たり次第に斬って切り捲ろうと向不見ずの野蛮な考えがあった。

 朝廷からは始終かわらずに攘夷鎖港の勅諚があるにもかかわらず、幕府においてはいつまでも因循して居て、今に朝旨を遵奉せぬというのは、すなわち絨狄是れうち荊舒是れ懲らすという格言に背いて、征夷将軍の職分を蔑如するものである。かくの如き姿では、目前洋夷のために我が神州を軽侮される次第で、万々一にもこの後もし城下の盟いをするように通商条約でも許したならば、それこそ我が国体を汚辱するものといわねばならぬ始末である。仮令和親をするにもせよ、まず一度は戦って相対の力を比較した後でなければ和親というものではない。ナニ彼に堅艦巨砲があっても、我にはいわゆる大和魂を以て鍛錬した日本刀の鋭利があるから、手当たり次第に斬って切り捲ろう、という向不見ずの野蛮な考えであって、今から見ると、まことに笑うべき話にすぎないけれども、その時は攘夷一途に思い込んだ頭脳だから、しょせんこの幕府では攘夷などは出来ぬ、そのうえも徳川の政府は滅亡するに相違ない、何故だというのに、世官世職の積幣が既に満政府を腐敗させて、つまる処、智愚賢不肖各々その地位を顛倒してしまった。
渋沢 栄一「雨夜譚」

2017年9月3日日曜日

さすがは世界一憲法国だけあって小丘の名まで皇室と人民とを一様に俯瞰する。

 ピカデリー通りの片側に、芝原の傾斜地がある。それをコンスチチューション・ヒル即ち「憲法が丘」と名付けたのは、いささかに木に竹を接いだ感がある。この傾斜地の直ぐ下は大英帝国肯定の常住の御殿、バッキンガム宮になっているので、ロンドン(倫敦)人にすら解決の附かぬ問題が僕には忽ち釈然と解ってしまった。即ち英国人の人民は憲法が丘から皇室を監視しようとするので、バッキンガム宮殿に臨むこの小丘に厳しい名をつけたのである。パーリアメント(巴力門)の乗員へ行って見ると、玉座の頭の上にジョン王を威嚇して大憲章(マグナカルタ)に調印せしめた18人のバロンが、毘沙門天のような風采で、王座を睨み下して、イザといえば飛び降りて、手にする槍を突きつけそうな見幕を示している。僕はこれを見て、この王座に座る皇帝の心理状態は、少しく皇帝的心理状態を懸離れたものたらざるを得ないと思った。しかも更にロンドン(倫敦)全体を瞰下す市の北方にある一小丘にパーリアメント(巴力門)の名を下して、皇室と人民とを一様に俯瞰するものは、パーリアメント(巴力門)丘である事を示した。さすがは世界一憲法国だけあって小丘の名までコンスチチューショナルに出来ているのは関心と申す外はない。
長谷川 如是閑「ロンドン(倫敦)! ロンドン(倫敦)?」

2017年9月1日金曜日

ヴァッジ族を征服しよう、根絶しよう、滅ぼそう、無理にでも破滅に陥れよう。

 マガダ国王アジャータサットゥ、すなわちヴィデーハ国王の女の子、は、ヴァッジ族を征服しようと欲していた。かれはこのように告げた。
「このヴァッジ族は、このように大いに反映し、このように大いに勢力があるけれども、わたしは、かれらを征服しよう。ヴァッジ族を根絶しよう。ヴァッジ族を滅ぼそう。ヴァッジ族を無理にでも破滅に陥れよう」と。
 そこでマガダ国王アジャータサットゥ、すなわちヴィデーハ国王の女の子、は、マガダの大臣であるヴァッサカーラというバラモンに告げていった。「さあ、バラモンよ、尊師のいますところへ行け。そこへ行って、尊師の両足に頭をつけて礼をせよ。そしてわがことばとして、尊師が健勝であられ、障りなく、軽快で気力があり、ご機嫌がようかどうかを問え。そうして、このように言えー尊い方よ、マガダ国王アジャータサットゥはヴァッジ族を征服しようとしています。かれはこのように申しました。ーと。そして尊師が断定せられたとおりに、よくそれをおぼえて、わたしに告げよ。けだし完全な人(如来)は虚言を語られないからである」と。
第一章 一、鷲の峰にて「ブッダ最後の旅 ー 大パリ二ッバーナ経 ー」

2017年8月31日木曜日

他の人々にはまだ暗黒だけの一角に、新しい日の出の最初の閃光を認めている。

 私がこの著作を書こうとする主な目的は、私が黄昏(トワイライト)の時代と呼んだ、廃朝後の満州朝廷を描くことにあった。それは1912年初のいわゆる共和国の創設の時期から、皇帝溥儀がクリスチャン将軍(馮玉祥)とその同盟者によって紫禁城を追われる1924年11月までの13年に該当する。
 トワイライトという言葉には、黄昏の光だけでなく暁の光の意味もふくまれている。この物語のなかで述べられている黄昏のほの暗い光は、夜の闇にのみこまれてしまったが、それは時の経過とともに再び、太陽の光に輝く新たな日を迎えることとなろう。
 それこそは中国人を敬愛し、尊敬するすべての人々の熱烈な希望であり、固く信じるところなのである。
 われわれの多くはすでに、他の人々がまだ暗黒だけしか認めていない点のまさにその一角に、新しい日の出の最初の閃光を認めている。しかし、以下の各章でわれわれが関わろうとしているのは、黄昏の微光であって、暁の曙光ではない。
レジナルド・フレミング・ジョンストン「紫禁城の黄昏」

2017年8月28日月曜日

言語の音単位は、代え難い独自の場所を有しする組織体または体系をなし、それ以外を排除している。

 言語を形づくる基本たる一つ一つの音の単位は、単語のように無数にあるものではなく、或る一定の時代または時期における或る言語においては或る限られた数しかないのである。すなわち、その言語を用いる人々は、或る一定数の音単位を、それぞれ互いに違った音として言いわけ聞きわけるのであって、言語を口に発する時には、それらの中のどれかを発音するのであり、耳に響いて来た音を言語として聞く時には、それらのうちにどれかに相当するものとして聞くのである。もっとも、感動詞や擬声語の場合には、時として右の一定数以外の音を用いることがあるが、これは、特殊の場合の例外であって、普通の場合は、一定数の音単位以外は言語の音としては用いることなく、外国語を取り入れる場合でも、自国語にないものは自国語にあるものに換えてしまうのが常である。
 かように或る言語を形づくる音単位は、それぞれ一をもって他に代え難い独自の用い場所を有する一定数のものに限られ、しかも、これらは互いにしっかりと組み合って一つの組織体または体系をなし、それ以外のものを排除しているのである。
橋本 進吉 (国語音韻の変遷)「古代国語の音韻に就いて他二編」

2017年8月26日土曜日

近代という一時代の性格は開拓した個々の世界が分離した混乱である。

 まず近代という一時代の性格を説明することから始めなければならない。そしてそれは混乱であると言える。しかしこの混乱は、凡てのものにその秩序を論理的に追求して発達してきたヨオロッパの文明が、それが遂に一つの秩序をなすに至るものであるかないかとは関係なしに追及を続けたために陥った混乱であって、秩序を求める意志は初めから少しも変わらず、ただそうして開拓した個々の世界が各自の方向に従って分離するばかりであることが分かったからであるから、その時に起こった状態は決定的なものだった。それが解ったのが、近代だった。そしてこういうヨオロッパ的な好奇心に限界はなくて、それが何にでも向けられた成果を得たのであって見れば、近代になって、そこには秩序の他は凡てのものがあった。秩序、あるいはそれまであったはずの神はなかったとも言える。
吉田 健一「英国の近代文学」

2017年8月25日金曜日

文学は政治の奴隷になると、政治の宣伝機関になり、政治を批判することはできない。

 文学は独立するようになったのでありますが、その後また道徳、政治とからみあって、ずっと変遷して来ております。もし文学というものが、何かとからみあわなくてはならない、極端に言えば、何かの奴隷にならなければならぬものならば、これは政治の奴隷になるよりも、道徳の奴隷になった方がよいと思います。なぜかと申しますと、政治の奴隷になりますと、文学は政治の奴隷になりますと、文学は政治の宣伝機関になるだけであって、政治を批判することはできません。しかし、道徳の奴隷になりますと、道徳の立場から政治を批判することができます。政治の善い悪いに拘らず、文学がただ政治の宣伝機関になってしますますと、世の中よりも一層の進歩ということは、望まれません。ところが、文学が道徳に隷属しますと、ほかの立場から、即ち道徳の立場から、政治を批判することができますから、こうなれば、社会の進歩に貢献する所が多くなりましょう。
欺波 六郎「中国文学における孤独感」

2017年8月24日木曜日

汝の第一の軍隊は欲望であり、第二の軍隊は嫌悪であり、第三の軍隊は飢渇であり、第四の軍隊は妄執といわれる。

 汝の第一の軍隊は欲望であり、第二の軍隊は嫌悪であり、第三の軍隊は飢渇であり、第四の軍隊は妄執といわれる。汝の第五の軍隊はものうさ、睡眠であり、第呂久の軍隊は恐怖といわれる。汝の第七の軍隊は疑惑であり、汝の第八の軍隊はみせかけと強情と、
 誤って得られた名声と尊敬と名誉と、また自己をほめたたえて他人を軽蔑することである。
 ナムチよ、これらは汝の軍勢である。黒き魔の攻撃陣である。勇者でなければ、かれに打ち勝つことができない。勇者は打ち勝って楽しみを得る。
 このわたしがムンジャ草を取り去るだろうか? 敵に降参してしまうだろうか? この場合、命はどうでもよい。わたしは、敗れて生きながえるよりは、戦って死ぬほうがましだ。
 或る修行者たち・バラモンどもは、この汝の軍隊のうちに埋没してしまって、姿が見えない。そして徳行ある人々の行く道をも知っていない。
スッタニパータ「ブッダのことば」

2017年8月23日水曜日

イエスが、自分の使命は平和をもたらすことではなく、剣をもたらすことである。

 イエスが、自分の使命は平和をもたらすことではなく、剣をもたらすことであるというとき、またイエスが、自分のもたらす激動について、もっとも神聖な地上のえにしは絶ち切らねばならないし、ひとびとは十字架を負うてイエスに従い、自分の生命を無視しなければならない (マタイ 10章 34-42節)ことについて語るとき、そのとき、イエスは終末期の時の迫害のことを考えているのである。神の国を強いよせるものは、大いなる迫害をも招くのである。なぜなら王国とメシアとは、まさにこの大いなる迫害から生まれるからである。
 このゆえにこそ、いたるところのメシアの調和のうちにきわだった和音が認められるのである! イエスは幸いの教えを、憎まれ、責められ、イエスのためにさまざまの悪しきことをいわれるとき、そのひとびとは幸いであると結んでいる。そのときひとびとはまさしく喜びと歓呼の理由をもっているのである。なぜなら、かれらが耐えしのばねばならないそのことのなかに、かれらが神の国に属していることが啓示されるからである。かれらがなおこの世の権力によって苦難を受けているとき、天上ではすでにむくいが準備されているのである (マタイ 5章 11-12節)。
アルベルト・シュヴァイツアー「イエスの生涯 ー メシアと受難の秘密 ー」

2017年8月20日日曜日

君はもう戦う前から逃げている。自分の手の及ばないところは見ない方がいい。

 想像力のはたらきはすごいものだ。君はもう戦う前から逃げている。自分の手の及ばないところは見ない方がいい。仕事のとほうもなさと人間の弱さを考えたなら、人は何もできない。したがって、まず行動し、自分のゆることだけを考えるべきた。あの石工を見たまえ。彼は落ち着いてハンドルをまわしている。大きな石はほんのわずか動くだけだ。それでもやがて家は出来上がるし、子どもたちが階段でとびまわっているようになる。ある時ぼくは、厚さ15cmもある鋼の壁に穴をあけようとしている独りの職人が、そこに座って曲がり柄錐を扱っているところを見て感心した。口笛を吹きなから錐をまわしているのだ。鋼鉄のこまかいくずが雪のように舞っていた。この男の図太さにぼくはまいっていた。
エミール=オーギスト・シャルティ (アラン)「幸福論 (第1部)」

2017年8月17日木曜日

いつの時代にも、大衆の人のよさと無知とが大ていの内乱の原因であったのです。

 軍人。ー 諸君の軍隊はエクスに終結して何をしようというのですか? それでは絶望的ですよ。塹壕にこもっている者は敗れるということは、戦術上の公理です。経験も理論もこの点では一致しています。エクスの城壁は最も出来の悪い原野の防禦陣地にも劣るでしょう。・・・マルセーユの方よ、私の言葉を信じ給え、諸君を反革命に導く少数の不逞の輩のくびきを脱し、諸君の法律で決められた権威をふたたび打ち建て、憲法を受け容れ、代表者たちを自由の身に返してやり給え。そして代表者たちがパリへおも赴いて諸君のためにとりなさんことを。諸君は惑わされているのです、民衆が少数の謀叛人や陰謀家から惑わされるのは今日にはじまったことではない。いつの時代にも、大衆の人のよさと無知とが大ていの内乱の原因であったのです。
オクターヴ・オリブ編「ナポレオン言行録」


2017年8月15日火曜日

すべての目的と功用は、力への意志があるより小さい力を有するものを支配し、自ら一つの機能の意義を後者の上に打刻した標証にすぎない。

 古来人々は、ある事物、ある形式、ある制度の顕著な目的または功用は、またその発生の根拠をも含んでいる、例えば、眼は見るために作られ、手は掴むために作られた、と信じてきたからだ。そして同様に人々は、刑罰もまた罰するために発明されたものだと思っている。しかしすべての目的、すべての功用は、力への意志があるより小さい力を有するものを支配し、そして自ら一つの機能の意義を後者の上に打刻したということの標証にすぎない。従ってある「事物」、ある器官、ある慣習の全歴史も、同様の理由によって、絶えず改新された解釈や修整の継続的な標徴の連鎖でありうるわけであって、その諸多の原因は相互に連関する必要がなく、むしろ時々単に偶然的に継起し後退するだけである。してみればある事物、ある慣習、ある器官の「発展」とは、決して一つの目標に向かう《進歩》ではなく、まして論理的な、そして最短の、最小の力の負担とて達せられる《進歩》では更ない。
フリードリヒ・ニーチェ「道徳の系譜」


2017年8月14日月曜日

美徳が求める名誉と栄光の報酬が、自分の命をかけてそれほど何度も戦ったりする。

 労苦と危険の報酬として美徳が求めるのは、他ならぬこの名誉と栄光という報酬だけだからである。
 もしも名誉と栄光の報酬が取り去られたら、こんなにも取るに足りない、こんなにも短い人生において、われわれがこれほどの労苦に勤しむ意義が何かあるであろうか。言うまでもなく、もし心が後世のことを念頭に置かず、一生が終わるのと同じ時間の枠ですべての思考も終わるのであれば、そんなにも多くの労苦で身を苛んだり、そんなにも多くの心配や寝ずの努力で苦しんだり、自分の命をかけてそれほど何度も戦ったりするようなことがあるであろうか。ところが、優れた人々の心にはみな美徳が宿っており、夜昼となく栄光へと心を駆り立てている、そしてわれわれの名前は命とともに終わるのではなく、後の世までいつまでも残るのだということを訓告してくれるのだ。
マルクス・トゥッリウス・キケロ「キケロー弁論集」


2017年8月11日金曜日

戦争を肯定し、軍隊の存在を許す限り、兵卒すなわち一般民衆は、人権どころか、馬ほどの価値も認められていない。

  将校下士馬兵卒という言葉は、戦争と軍隊とを肯定する限り、全く正しい哲学で、非民主的でも、野蛮でもない。恥ずべき点はないのである。兵隊は葉書一枚の令状で直ちに補充が出来るという意味で、日露戦争ころ下士などが兵隊に向かい、「貴様らは一銭五厘だぞ」(葉書は一銭五厘であったから)とどなり散らしたことがあったというのも、右と同じ理論によるのである。私はこう說明して、同僚の一年志願兵に話したことがあった。
 しかし右の私の說明は、これを裏返せば反軍的にもなる。戦争を肯定し、軍隊の存在を許す限り、兵卒すなわち一般民衆は、人権どころか、馬ほどの価値も認められていないぞと、それは教えるものだからである。私は太平洋戦争中、『中部日本新聞』から執筆を依頼された際、実はその含みで「将校下士馬兵卒」と題する短い論文を書いてやったことがあるが、それはさすがに大本営報道部から「不許可」という大きな判を押されて返された。またそれには赤インキで「軍として不可の意見」とも記してあった。検閲を受けずに、新聞に掲載してくれればよかったと思うが、しかし新聞社では私の論文を見て危険を感じたのであろう。報道部に事前検閲を求めて、不許可となったのである。
石橋 湛山「湛山回想」

2017年8月9日水曜日

直ちに投石や武器に訴えるが、自己の生活のなかに他人が進入することは許している。

 かつて光り輝いた天才のすべては、この一つの主題について意見を同じくしている。にもかかわらず彼らでも、このような人の心の闇には、どんなに驚いても驚き足りないであろう。どんな人でも自分の地所をとられて黙っている者はいないし、また領地の境界について、たとえ小さなもめ事が生じても直ちに投石や武器に訴える。だが、自己の生活のなかに他人が進入することは許している。いや、それどころか、今に自分の生活を乗っ取るような者でさえも引き入れる。自分の銭を分けてやりたがる者は見当たらないが、生活となると誰も彼もが、なんと多くの人々に分け与えていることか。財産を守ることがけちであっても、時間を投げ捨てる段になると貪欲であることが唯一の美徳である場合なのに、たちまちにして、最大の浪費家と変わる。

ルキウス・アンナエウス・セネカ「人生の短さについて」

2017年8月6日日曜日

人に知識なければ国を治ること能わず、国を乱したるにも規則なし、皆無知文盲の致す所なり。

 天下は太平ならざるも、生の一身は太平無事なり。かねて愚論申し上げ候通り、人に知識なければもとより国を治ること能わず。甚しきに至りては国を乱したるにも規則なし。皆無知文盲の致す所なり。今人の知識を育てんとするには、学校を設けて人を教えるに若くものなし。依て小生義は当春より新銭座に屋敷を調え、小学校を開き、日夜生徒ともに勉強致し居り候。この塾小なりといえども、開成所を除くときは江戸第一等なり。然ればすなわち日本第一等乎。校の大小美徳をもって論じれば、あえて人に誇るべきにあらざれども、小はすなわち小にして規則正しく、普請の粗末なるはすなわち粗末にして掃除行き届けり。僕は学校の先生にあらず、生徒は僕の門人にあらず。これを総称して一社中となづけ、僕は社頭の職掌相努勤め、読書は勿論、眠食の世話、塵芥の始末まで周旋、その会社の社中にも各々その職分あり。

福沢諭吉「福沢諭吉の手紙」

2017年8月5日土曜日

あちこちの方角に投げ捨てられまち散らし鳩色のような白い骨を見てはこの世に何の快があろうか?

 諸のつくられた事物は実に無常である。生じ滅びる性質のものである。それらは生じては滅びるからである。それらの静まるのが、安楽である。何の喜びがあろうか。何の歓びがあろうか? ー 世間はこのように燃え立っているのに。汝らは暗黒に陥っていて、照明を求めようとしない。あちこちの方角に投げ捨てられまち散らされたこの鳩色のような白い骨を見ては、この世に何の快があろうか? 夜の最初のあいだ母胎に入って住みつく人は、安らかにとどまること無く、迷いのうちに遷っていくー去って、もはや還って来ない。朝には多くの人々を見かけるが、夕べには或る人々のすがたが見られない。夕べには多くの人々を見かけるが、朝には或る人々のすがたが見られない。
 「私は若い」と思っていても、死すべきはずの人間は、誰が自分の生命をあてにしていてよいだろうか? 若い人々でも死んで行くのだ。ー男でも女でも、次から次へとー。或る者どもは母胎の仲で滅んでしまう。或る者どもは産婦の家で死んでしまう。また或る者どもは這いまわっているうちに、或る者どもは駆け廻っているうちに死んでしまう。老いた人々も、若い人々も、その中間の人々も、順次に去って行く。ー熟した果実が枝から落ちていくように。熟した果実がいつも落ちるおそれがあるように、生れた人はいつでも死ぬおそれがある。
第1章 無常 (関与のことば)「ブッダの真理のことば、関与のことば」


2017年8月4日金曜日

イスラエルの子らの中のすべての胎を開くものは人であれ、家畜であれ、ヤㇵウェのものである

 ヤウェがモーゼに語って言われた。「すべの首子を聖めてわたしに献げよ。イスラエルの子らの中のすべての胎を開くものは人であれ、家畜であれ、わたしのものである」。
 モーゼが民に言った。「君たちがエジプトの奴隷の家から出たこの日を懊えよ、何故ならウェーは強い手をもって君たちを引き出されたのだから。種を入れたものを食べてはならない。アビブの月の今日、君たちは出る。ヤウェが君の先祖たちに与えようと誓われた乳ち蜜の流れる地に君を入れられる時、君はこの月に祝うべきである。七日の間は種入れぬパンを食べなければならない。七日目はヤウェのための祭りである。七日の間種入れぬパンを食べ、すべての君の領域に種を入れたものが見られるようにせねばならない。パン種が見られないようにせねばならない。その日君は君の子に次のように言って告げなければならない。『これはわたしがエジプトから出た時にヤウェがわたしにされたことのためである。ヤウェの律法がお前の口にあるように、それがお前の手にある徴しとなり、お前の目の覚えとなるように』。何故ならヤウェが君をエジプトから引き出されたからである。それで君はこの規定を年毎に定められた時に守るべきである。ヤウェーが君と君の先祖たちに誓われたように、カナン人の地に君を入れ、それを君に与えられる時、君は胎を開くすべてのものをヤウェに奉らねばならない。
十八 首子の犠牲その他「旧約聖書 出エジプト記」

2017年8月2日水曜日

人間の霊魂はどうしてもことごとく不死でなければならない。

第72章 人間の霊魂はことごとく不死であること
 しかしもし人間の霊魂が可死的であるとすれば、最高の本質を愛する霊魂が永遠に至福であることも、それを蔑む霊魂が不幸であることも、必然ではなくなるであろう。それ故に。人間の霊魂は、それを愛するために創造されたそのものを、愛するにせよ、蔑むにせよ、どうしても不死でなければならない。けれども、例えば子供の霊魂がそうであると見られるように、もし、それを愛しもしなければ蔑みもしないと判断されるような、ある理性的な霊魂も存在するとするならば、そういう霊魂についてはわれわれは如何なる見解をもつべきであろうか。そういう霊魂は可死的であろうか。疑う余地がない。だから、ある霊魂の不死であることが明白である以上、すべての人間の霊魂が不死であることも、必然でなければならない。
聖アンセルムス「モノロギオン」

2017年7月31日月曜日

すべて理性を持たないものを自分に従わせ、自由にして自分の法則によって支配することが人間の最後の究極的目的である。

 すべて理性を持たないものを自分にしたがわせ、これを自由にそして自分の法則によって支配することが人間の最後の究極的目的である。この最後の究極的目的は、人間が人間であることをやめてならず、人間が神になってならないならば全然達成されないものであるとし永遠に達成されないものであらねばならない。人間という概念にはその最後の目標は達成されず、これに至る道はかぎりないものでなければならないことが含意されているのである。そこで、この目標に達することは人間の使命ではない。しかし人間はこの目標にますます近づくことができ、また近づかねばならない。したがってこの目標にかぎりなく近づくことがかれの人間としての、つまり理性的ではあるが有限な存在者、感性的ではあるが自由な存在者としてのほんとうの使命である。ーところであの自己自身との完全な一致を最高の意味で完全性と名づけると、また名づけるのは無論さしつかへないことである。で、そうすると完全性ということは人間のきわめて到達しにくい目標ということになる。しかしかぎりなく完成していくことは彼の使命である。人間が現存しているのはみづからますます道徳的により善くなって行って、自分のまわりのあらゆるものを感性的により善くし、人間を社会の中で考察すれば、道徳的にもより善くし、こうして自分自身をますます幸福にして行くためである。
ヨハン・ゴットリーブ・フィヒテ「学者の使命 学者の本質」

2017年7月30日日曜日

好奇心のおもむくままにまかせた「科学のための科学」とは不合理な概念である。

 トルストイから見れば「科学のための科学」とは不合理な概念であるという。「一切の事実を知りつくすことは吾々のよくするところではない。実際には無限ともいうべきほどその数が多いからである。したがってその間、選択をしなければならないのであるが、この選択に際して、吾々は好奇心のおもむくままにまかせて差支えないであろうか。むしろ実益を、いいかえれば吾々の実際的要求を、わけても吾々の道徳的要求を、標準とする方がまさりはしないであろうか。この地球上に何びきテントウムシがいるか、かようなことを計算するよりも、かようなことを計算するよりもさらに価値ある仕事がないであろうか。」というのである。
 わたしにとっては、もとをいうまでもないことであるが、この両者のうちいずれの理想も満足しがたいものである。彼の貧林愚昧な金力政治も、またひたすら右の頬を打たれて左の頬をむけることのみ没頭する彼の道徳的ではあるが凡庸な民衆政治も、ともに私の欲するところではない。後者のもとに住むものは、好奇心の欠けた聖者たちであって、かような聖者たちは極端を戒めるあまり、病に死することはないであろうが、かならず退屈に兼ねて死する相違ない。しかしながら、これは趣味の問題であって、わたしの論じようと欲求するのはこの点ではない。
アンリ・ポアンカレ「科学と方法」